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松香分苑は130年の歴史を持つ宗教法人・大本の地方機関の一つで愛知県豊橋市に拠点があります。
■祭典
春季・秋季大祭 四月・十月第二日曜日
月次祭 毎月第二日曜日
■沿革
松香分苑は、徳島県鳴門にある十二神社の神主の家に生まれた松本松子(旧姓宮崎マツ)が、昭和42年3月3日に、「松香支部」と三代教主出口直日様に御命名賜り発足した大本の一機関です。地域ではなく、松本松子がお導きした信徒を中心として設立された大本では稀な機関であり、信徒は関東から関西まで広範囲にわたっています。
当分苑は、初代分苑長をはじめ、松子の長女山本文子が二代目を引き継ぎ、「大神様の存在を一人でも多くの方に知っていただくことで、皆に幸せになって頂きたい」と、アニメビデオ「竜神に乗った少年」や「天国へのチケット」、そして信徒が大神様から頂いた「ご神徳談」を編集発行する等、時代に即した宣教活動にいち早く取り組み、大きな功績を残しました。また、御神書拝読による自分自信の魂の向上を図りつつ、病気祈願をはじめとする、お世話活動を徹底して実践してきました。「信徒は皆家族」とした信仰の姿が、創設者から引き継がれた松香の文化です。詳細は「松香の歴史」をご覧ください。
■各種祭典・式典・ご祈願お受けいたします。日本古来の神道様式で厳粛に斎行させて頂きます。
地鎮祭・上棟祭・各種慰霊祭・結婚式・葬祭・交通安全祈願
病気平癒祈願・合格祈願・厄除け祓い・身の上相談
■アクセス
〒440-0014 愛知県豊橋市南牛川 2-3-20 Tel/Fax 0532-63-2173
■ 次回のご神徳談集 第75話 は11月22日(金)にUPします。
■ 12月8日に12月度月次祭を斎行します。ご参拝の方は事前にご連絡下さい。
■ 松香分苑ホームページを紹介するチラシを作りました。プリントして宣教にご活用ください。
画像をクリックすると拡大表示されます。■ 2022年11月13日に日本体育大学教授の具志堅幸司先生の講演会が桜丘学園 中高等学校(豊橋市牛川)で開催されました。
桜が丘学園の生徒さん、学校関係者、分苑関係者合わせて150名もの方々に来場頂きました。心よりお礼申しあげます。
当日の講演の映像を公開しました。下記の映像をクリックするとyoutubeの松香分苑channelで視聴できます。
「高い志をもって本気で努力を重ねれば夢は実現できる!」という実体験に基づいたお話です。是非ご視聴下さい。
下記の案内チラシは画像をクリックすると拡大表示できます。
「大本」は明治二十五年に京都府綾部市に開教し、今年百二年を迎えました。
私の母であります、松本松子は平成四年で「大本」信仰一筋五十年となり、その間数々の奇跡的な御神徳を頂き、多くの方々をお導きさせて頂きました。
母松本松子は、生後間もなく三男の兄に胸の上に飛び降りられ、当時、脳膜炎と言われ、これが原因で失明。
将来のことを思い悩み自殺をしようとする寸前に「祈り」により神の光を受け目が見えるようになる。これより母は、神様より命を頂いたので、人様の手助けを自分の一生の使命と考え、多くの方々に神様の存在を話して活動する。この間、結婚後、間もなく過労の為に結核にかかる。更に長男出産後、高熱の為に右乳を七回切除。
四十才代に入り子宮癌になるなど、何度も死に目に合いながら、その度、大きな御神徳を頂き「入り豆に花が咲く」のたとえ通り今年元気に七十九才を迎える事が出来ました。
この度、大本松香分苑が神戸市より愛知県豊川市へと大移動し、大本松香分苑長も松本松子より私の引継ぎさせて頂きましたのを一つの区切りとして、松本松子が数々頂きました御神徳談の一部と、信者様の体験談の一部をご紹介させて頂きます。
この本を読まれて、一人でも多くの方が「大本」のすばらしさを知って頂きお陰を頂いて下されば、幸いに存じます。
私の母松本松子は、平成八年1月三十日に八十一歳で宣伝使の生涯を終えました。私は兄が一人おりました。私が生まれる前の日まで宣教活動をしており、三代教主様からお葉書で、男子の場合と女子の場合の両方の名前を頂きました。その日のうちに礼状をポストへ出しに行きその帰途に陣痛が来て、翌朝私が生まれました。
私は学校へ入学するまで母の背で宣伝歌の子守歌で育ち、その頃は大本でも子連れ宣伝使として有名だったそうです。とにかく母は霊界物語に出てくる宣伝使の様で一日睡眠時間三~四時間、一日多い時は六十人のお取次ぎと身の上相談を受けていたとの事でした。私は母が各地宣教に行く度に信徒さまのお家に預けられ、各家をまわっておりました。私が学校へ通うようになると、本格的に母の宣教活動が始まり、二年に一日だけボロボロになった着物(昔は銘仙と言って布地が弱かった)とすり減った下駄を履き替えに帰って、翌日、または長くいて二~三日で出かけていきました。 私は小学校入学式も隣の家の小母さんに連れて行ってもらいました。 その頃は戦後でしたので、一家は大本信徒さまの特任宣伝使をされている人のお誘いで徳島の山奥に疎開しておりましたが、その人に、神様のお道が開けるから、支部の為の家をたてなさいと言われ、父はその通り建てましたら、完成した直後に、その人から神様の命令でと言われて家をとられてしまい、この嫌な思いをしてからというもの大本信仰に猛反対するようになり、母が宣教活動できない様に、帰ってきても下駄を隠したり、お金を隠して出かけられないようにしたりしておりました。しかし母の意志は強固で、山から材木を満載したトラックの材木の上に、無料で載せてもらい、四時間も、振り落とされないように材木にしがみついて徳島市内の信徒様のお家へ行くこともありました。
私の友人は、私の家が父子家庭だとずっと思っていたようです。子どもや家庭の事はすべて神様が良いようにしてくれるから私は人助け第一でと、それを貫き通した人生でした。そんな母に私も反発した頃があり、幼少の頃から朝夕拝は欠かしたことはなかったのですが、それは朝起きて顔を洗うといった生活習慣でしかなく、家庭を顧みない母に不満もあり、いつしか心は大本の神様から離れ、キリストの日曜学校に通ったり、仏教のお話を聞きに行ったりしていた時もありました。その頃、父が末期の肝臓癌となり、重体で入院させてもらえず病院から帰された時、兄と二人で随分悩みました。母はと申しますと、「信徒様で癌の方を三人も引き受けて御祈願、指導しているので今は家には帰れない、主人が病気と知らせたら皆さんに心配かけるので何も知らせず、亡くなったら『すぐ帰れ』とだけ電報を打ちさない」と。私はそこまで強い信念を持っている母の信仰態度に「待てよ、私も一度真剣に祈る価値のある神様かも?」と気付き、二十一日間私なりに望み事をお願いしてみました。するとぴったり二十一日目に希望が叶い、もう一度違った、自分としては不可能に近い望みを二十一日間頼んでみました。それも二十一日目に叶ったのです。 しかし、一~二度は偶然かもしれないと考え、三度目は父の病気をお願いしました。名医と言われていた小松島の信徒様の加藤病院長様も往診に来て下さり、よくもって一週間と言われ、その時、手足は細り顔は土気色で腹水でお腹は異様に大きく腫れ、尿毒症も起こしており、どのお医者様にもさじ投げ状態でした。
私は 本当の神様ならば助けてくれるに違いない、(母が家庭も顧みず、宣教活動のみしている)と祈願をしました。すると、祈願二十一日目に母が突然帰宅し、母は「いつも元気いっぱいの自分が、主人のことを思い泣きながら綾部の本宮山で祈っている姿をみて、不思議に思った古い信徒様が、事情を尋ねてくださり、その方が、自分が万が一の時に飲もうと肌身離さず持っていた、たった一つの開祖様のおひねり様をあげますと、おひねり様をくださり、その足ですぐ帰ってきたので、すぐ父さんに飲ませるように」と言い、すぐご神水で飲ませました。すごく大きい紙のおひねり様でした。飲んで半日くらいたった頃、突然父のお腹がすごい音がして汚物が排泄され、四十二度以上の高熱がその日からピタリと止まり、食欲が出てきました。主治医や近所の人の驚きもさることながら、私は、このことで、大神様の存在を信じることになり、それからは自分自身のお祈りの仕方や態度が一変しました。その当時父は五十歳でした。母は一言も私に「祈れ」とも何も言いませんでしたが、時々祝詞奏上が嫌になった時は、そういう時こそ這ってでもご神前に行き祝詞を奏上しなさいと注意されました。
母の晩年に、朔日参拝しておりました頃、梅松館の受付の若い男の方が母を見て、「宣伝使松本松子先生と、三代様が良くおっしゃられるので、どんな人かと思っていたら,何だ、こんなお婆さんか」といわれ、私は驚いて、「何でですか」と聞き返しましたら、「この大本のなかでも三代様が宣伝使○○先生とおっしゃられる人はこの松本さんしかいないので、もっとすごい人と思っていたので」と言われました。確かに母は、三代教主様のお言葉通り、生涯宣伝使だった思います。私が長女出産の時も、神戸にいた母は、信徒様の仲人に行き、主人の姉が病院に手伝いに来て下さいました。母として、妻としての母はとても家庭的な人であり、いつも家族の事を思っていました。ですから格別、家庭の事が出来ないことが辛く、修行であったと思います。しかし、母は「神様に失明している目が開けてもらえば一生神様のことを人々にお伝えします」という願をかけ、それを実践した人でありました。母は六十五歳の時に、頼りにしていた兄(三十五歳)が昇天したときも、一度も神様に不平を言わなかった人で、信仰の道の師匠として、尊敬できる人でした。私は、祈って神様に通じないものはないという不動の信を母の背を見て教えてもらった気がします。私もご祈願と身の上相談で家のことが不十分になることもありますが、主人は信仰熱心でありますし、子どもたちもよく手伝ってくれるのでなんとかやれております。
母は信仰一筋五十年の褒章の時に、尊師様の「原」というご染筆を頂きました。確かに母は、荒地に種を蒔き、原野を耕していった苦労の一生でありました。そして、この松香分苑の原点となってくれた人でもあります。母の意思を継ぎ、私も宣伝使として宣教活動にひたすら励んでおり、全国お導き功労者褒章を頂きました。これからも母の生きてきた道に恥じないよう、精進努力を忘れず、ご神業に邁進していきたく思います。
最後に母が好きだったお歌を紹介します。
「聖師様お歌」
ここだくのなやみ憂いもみこころぞ
やがては開く花の春来ん
第2話~第14話(初代分苑長 松本 松子のご神徳談)は資料・リンクのページをご覧ください
「霊界からのメッセージ」
《兄の死》
私の兄が病死した時の事です。危篤になりある病院の集中治療室に入院して意識のないまま三日目を迎えました。心臓が悪くて倒れたのですが心臓だけは頑張って動いていました。倒れた兄自身も努力すれば助かると思っていたのでしょう。お医者様も「よく頑張っていますよ」とのお言葉を頂いていましたが、もう三日目になると、他の胃とか肝臓からすでに出血が始まっていると告知された時、母は覚悟して集中治療室の兄に面会し、兄のベットの所に行き、心で兄に「今度の発作は大きいのでもう助からない、あきらめて霊界へ行きなさい」と念じたと同時に鼻から血をたらりと出すと同時に心臓波を停止しました。病院より遺体で帰った兄に、私が、「お帰りなさい」と声を掛けたら鼻血がスーと出て知らせてくれました。私にとってはたった一人の兄でしたから霊界のある事は、大本のご神書である霊界物語(全巻八十三冊)で良く知っていても寂しくて心に大きな穴があき、落ち込んでいました。すると死んだ筈の兄が毎晩五十日間(神道は五十日祭・仏教は四十九日)私の夢に出てきて、死んだ日からの状態を教えてくれました。
《死後の五十日間》
本葬の時は私どもに混じって兄が一番よく会葬者に頭を下げていました。亦、十日祭の頃になると一度赤ん坊になって三才位に成長していました。霊と言って霊魂を祭ってある前で兄嫁の母が毎日霊界物語を音読(声を出して読むこと)してくれたお陰で恩頼(みたのふゆ)をいただいて早く霊魂が成長したとのことでした。五十日間は交替で音読し続けました。特に霊界物語の天祥地瑞の巻になって兄の霊魂の成長には目覚ましいものがあり、五十日目には三十才の美しい顔になり、何の苦しみもなくなっていました。
死んで五十日間はいつも家にいた通りの事を兄は普段と変わりなくしてましたし、私共が思い出して悲しむと兄の心は灰色のようになり世界が一面大型スクリーンの世界に入った様に悲しみの心になっていました。ビックリして生きている人間は死者を知らない内に苦しめたり悲しくしていることに気付かされました。それ以後できるだけ楽しいことを思い明るく努めました。
《三途の川》
いよいよ五十日の前日になり、いつものように夢の中で私に、「明日いよいよこの川を渡って向こう側へ行かねばならぬ、上流を渡るか中流か下流にすべきか、どこを渡った方がいいと思うか」と尋ねられました。私は判らないので、美しく済んだ小川に自分の足を浸してみると温水だったのでびっくりしました。丁度十月でしたからもう水は冷たい筈と思っていたので余計驚いたのです。「こんなに気持ちのいい川ならどこでも好きなところを渡れば」と答えました。
それから四~五日兄が夢に出てこなくなり、不思議なもので毎日会っていた兄に合わなくなると心配になり気にかかっていました。
《霊 国》
五日目に見知らぬ大きな石作りの御神殿のある立派な家に兄がいました。私に「よく来てくれた」と言ってくれましたが、何だか少し疲れている様子でした。
病死した兄なので、また病気が再発したのかと思って心配すると、兄は「現界と違ってこちら霊界の空気は少し違っていて慣れるまで、高山病のように少し動くと疲れる」 と言いました。
十畳位の部屋の隅を見るとタンスの前にハンガーの付いたまま、愛用していた洋服が一杯山のように積んでありました。私はもう感心するばかりでした。たしか、遺骸は焼かれて骨まで置いていったのに誠に不思議なことだと思いました。
《霊界の兄へ紋付を送る》
兄が「あわてて紋付をもってくるのを忘れたので明日届けてくれ」と言われましたので、「はい」と返事して目が覚め、どうしたら届けられるのか実際困りました。母に相談すると、いとも明快にそれはご先祖を祀っているお宮の前に紋付を置いて。想念(心の思い)で送ればよいと申しました。 早速そのようにしましたが届いたのかどうか不安に思っていましたが、翌日名古屋の知人から「紋付を来て兄さんが挨拶にきてくれた夢を見た」と電話があり、届いたことを確信しました。
《死後も同じ父》
また、父が四年前に急死しました時も、父の霊が出てきて「五十日間は三度三度の食事をいつも通り準備して欲しい」と言われ、亡くなった寂しさより忙しい思いをしました。
弔問の来客で忙しい私はお昼になっても父の霊前への供膳の用意ができない時パンをビニール袋ごと供えて父に叱られました。「ビニール袋とかビールの栓のしてあるのは食べられない」と言われ、手がかかるなあという思いがあります。量が少ないとお腹がひもじいと言われたり、夜は晩酌で熱燗にしてくれと言われたりです。
皆さん、とにかく生きている通りに五十日間はしてあげないと、亡くなった人は満足しないという事です。私は死んだ父の思いがよくわかるので、私は一番親孝行者だと、今も死んだ父に自負しています。
昭和五十五年の暮れの事です。故重成カネ伯母の体験談です。
孫が十五才の時、左の脇腹に握りこぶし大の固まりが出来、痛くて苦しんでいました。 折り悪しく暮れで家業の菓子製造の一番忙しい頃であり、病院も休みに入り困っておりました。家内中のものは忙しくて、その子をカネの伯母が見てやっていました。あまり痛い痛いと泣くので伯母は困り、み手代お取次を伯父の故宮崎正に頼もうと連絡しましたが留守だったので、母の松本松子にも連絡しましたが、連絡が取れず、仕方なく伯母はみ手代を持ってなかったが、とっさに『大本祝詞』を半紙に巻いて、その孫をお取次しました。
伯母は、お取次は初めてで必死で目をつぶったまま神様にお願いをしていたので分からなかったそうですが、お取次を受けいる孫が「おばあちゃんが祝詞をあげていると高松塚古墳の写真のような頭の格好をした金色の小さな女の神様と小さい男の神様が、三代教主様のお写真と日出磨尊師様のお写真から出てきて、男の神様が如意棒のようなもので、僕の左脇腹の固まりをたたくと、乞食の姿をした汚い男が飛び出し、出口王仁三郎聖師様のお写真がかかっている方に、その写真を取り落そうとよじ登って行くのをすごい力でつかまえて、汚い男を軽々とひっかかえて、部屋にある火鉢に放り込み燃やしてしまった。 そして、その灰を箱に入れて女の神様にお渡しすると、再び、お写真に二人共に入ってしまった。
僕はビックリしたので、御神前の方を見ると家の立松がすごーく大きな松林に見えて、神様の社も大変立派に見えた。 目が変なのかな思っていると、おばあちゃんのお取次が終わり、左脇腹の固まりもすっかり消えて治っていました。本当に不思議な出来事だった」と孫は伯母に話したそうです。
平成八年二月一日母松本松子の発葬式を終え来客の皆様がほとんど帰られた夕方、弔問名簿を片手にした時、意識が丁度テレビの画面がスート消えてゆくような感覚でなくなりました。主人の声で「文子が倒れた、おかしい、心臓が止まっている、救急車呼んでくれ」まわりの親類の人たちの声も「えっ、今まで元気にしていたのに疲れで気を失っているだけじゃない」主人の声「違う息もしていない」と叫ぶ声が聞こえていました。
一~二分後消防士の信徒様が私に心臓マッサージをしてくれ、主人は口から酸素を送ってくれるのが分かりましたが、当人の私はなんだか夢うつつの気分で、苦しくもなく心臓停止の感覚もありませんでした。
間もなく、救急車が来て私をタンカに載せ玄関で急角度に運びだした時、頭がタンカより外に出ていた為、強く玄関のタイル壁にぶつけられました。
その時、主人の姉が「危ない」と大声で言ってくれました。私も「痛いじゃないの物でないのだから、もっと丁寧に扱ってくれればいいのに…」と心中思ってました。救急車中ではペコペコという心臓マッサージの音が絶えず聞こえ、主人の励ましの声も聞こえましたし、車外に信徒様が立っているのがなぜか分かりました。(普通は心臓停止の状態ですから分からない筈ですが)そして、後日義姉に聞きましたら、声では出さず心で思ったとのことでしたが、当人の私は大声で心の声を聞いていたのです。豊橋市民病院では午後五時半頃で夜間交代の為に医師が多人数いて応急手当が良く、電気ショック二~三回で「心臓が動き出した」との声が聞こえました。
しかし、脳への負担を少なくするために低体温療法がとられ、注射でまる二日間眠っており(この間、記憶全然なし)身体も氷で冷却されていました。 二月三日節分大祭終了後長生殿へのご祈願により眠りから覚めました。しかし、大きな不整脈が続き、いつ死ぬか分からない状態でいつも主人が横に昼夜通しで側にいて介護し、絶えずお取次ぎをしてくれました。意識が回復しても気管には人口呼吸器が取り付けられていました。痰取り吸引されていました。吸われるために身体がのけぞる位辛く、苦しいものでした。あまりの苦しさに無我夢中で人口呼吸器をはずし、主人が気がついて大騒ぎになり、再び器具をつける施術をしなければという事になりましたが、主人が私の苦しむ姿を見ていて血液中の酸素が一定数値であればつけなくてもいいのでは交渉してくれ、検査結果、再びつけなくてもよくなり、あの苦しみから解放され、やれやれでした。低体温療法の為、風邪を引きましたが、日ごとに身体が回復し次々と症状の軽い部屋へとベッドが廻され運ばれて六日目には集中治療室の四人部屋に移されました。
左隣には、首を骨折した男性で私に「助けてくれ 助けてくれ」と頼んでばかりで、向かいの二人の女性は意識不明でした。
私は、主人が、集中治療室の中にいて「みて代お取次」とご祈願、その上お松とお土の煎じたのを毎日持って来てくれ、寒いので毛布を掛けていました。(こんな事は許されないのですが、病院の医師も看護婦の方もすぐ死ぬと思っていた為か好きなようにさせてくれました。)
そして、八日目にはすごい回復力で管も外してもらい、一人で点滴をもってお手洗いに通えるまでになりました。まわりの入院している人達も、医師も看護婦の方々も一人として声をかけてくれず、異様なものを見るような視線で見つめるばかりです。病院は一分毎に映しているテレビカメラ二台の内一台は、私ばかりずっーと二十四時間映している事を付き添いの方の話しで分かりました。私だけ、祝詞奏上したりお取次ぎをしたりしているので病院側として不思議な所作を監視していたのでしょう。
入院中四代教主出口聖子様、出口京太郎様はじめ長生殿へのご祈願申込みや、分苑信徒の皆様はじめ家族一同の必死の祈願により心肺停止した私が再び後遺症も無く十日間の集中治療室での入院後、退院をして自宅で百日間静養、その後社会復帰できました。
日出磨尊師様の生きがいの本に「死んでみないと死んだ人の気持ちが分からない~」と、ありますが、本当にそうだと思います。
救急車で運ばれる時に壁に頭をぶつけられたと医師に話しましたら、心臓停止の状態では分からない筈ですし、救急隊員の人達はそんなミスを犯す筈がないと言われましたが気が付くと、私の頭には大きなタンコブがありました。医師も看護婦さんも驚いていました。
皆さま、お葬式の時に、心で思った事はすべて故人に声になって聞こえる事を知って下さい。心の中で思った事はすべて故人に届いたわたしの実体験をお話しさせて頂きました。
倒れてより今年で九年目を迎えました。
市民病院では一ケ月、長くても一年目には死んで病院に来ると断言されましたとおり、退院一ケ月に心臓が苦しくなり再度病院に行きましたが、先生を待っている数時間の間にすっかり元気になり帰ってきました。
このように死に目に何度もあいましたが大神様の大変なご守護を頂き現在も元気にご神業に励ましていただいております。
私が三代様にご面会させて頂いたときの事です。
三代様は「皆、大本の信者さんは水を粗末にし過ぎている。私が皆に代わって神様にお詫びさして頂いている。お水は国祖大神様の血液やでなぁ!」とおっしゃられました。その時、故伊藤よしゑさまに向かい「お茶人さんやなぁ」とお声を掛けられました。
三代様は茶道の先生がいても決してお茶人さんなどと誉められた事はありませんでしたので、どうしてかなあと思い故伊藤よしゑさまを尋ねました。
故伊藤様は「私はお茶椀等洗った水は溜めて植木にやっています」と、答えられたのには、教主様は何でもご存知という驚きと、故伊藤様の生活態度の立派さに感心致しました。
昔からの故事
「水を粗末にする人は手足の痛い病気になる」と、いましめられたのを記憶しています。
私どもも故伊藤よしゑ様にならって日常生活を改めてお水を大切にして行きたく思います
退院後、自宅療養をしていた時の事です。分苑の月次祭で病気平癒祈願祝詞を奏上して下さっている時、二階のベッドで寝ておりましたら、御神
前から涼風が吹いてきて身体を通り抜けるように感じました。すると、今まで苦しかった容態が楽になりました。
後でご祈願をして下さっている人に時間をお聞きしましたら、奏上して下さっている時間と涼風を感じたのと同時刻でした。本当に神さまがお聞
き届けて下さっているのがはっきりと分かり、すごい御神徳をいただく事が分かりました。
皆さん安易に病気平癒祈願を出されてはいませんか。凄いお陰を頂いているのです。
ある信徒様のことです。この方のお取次ぎをさせて頂きますと、即効で病気が治ったり、気分が良くなられたりで、いつも感心させられます。私はどの方にも同じ様にお取り次ぎをさせて頂いておりますのに、すぐお陰を頂く方と頂けない方がいます。この差はなぜだろうと思い、良くお陰を頂かれるこの方の信仰態度を見てみますと、神様を絶対的に信頼されていますし、神様の事はすべての事において最優先し、月次祭の神饌物も季節ものの一番良い品をお供えされています。神床も二間床で家の中心に作られております。そして、お取次ぎにより私が内流を頂いて注意したことはすぐ実践されています。苦労されているのにとても素直な性格です。
こういう人がお陰を良く頂かれるタイプだと思います。世の中こんな方ばかりでしたらお取次ぎも楽しいです。
今までの数あるご祈願の中で、印象の深いお取次ぎの一つをご紹介します。
ある信徒様のご子息の事です。二十七歳の時突然頭が割れそうになり、入院され、精密検査の結果、脳に悪性腫瘍があり、手術成功率は一~二パーセントとのことで、「どうぞ、助けてください」というご祈願の依頼でした。 本人からも電話があり、「今までの人生で何の楽しみもまだ知らないので、これで死にたくない、どうぞ助けてください、もし助かったら何でも言うことを聞きます、お願いします!助けてください!」と長時間にわたる泣きながらの願いでした。それで私はすぐにご祈願をはじめ、毎日必死にご祈願をしました。手術日を迎え、十数時間に及ぶ大手術と言われていました。私は手術時間中、必死にご祈願をさせていただきました。もちろんご両親も、手術室の廊下で祝詞奏上をしていました。手術開始から六時間経過のとき、突然手術室のランプが消えたので、ダメだったとご両親は一瞬覚悟されたそうですが、執刀医が出てこられて、「手術は大成功でした。驚いたことには、昨日の検査の時は腫瘍がドロドロで、手術してもダメだと思っていましたが、今日頭を開いてみると、なんとイボのように腫瘍が固まっていて、そこを切り取っただけで、こんな不思議な手術は初めてでした」と言われたそうで、執刀医のお名前は私と同じ苗字の山本先生という事でした。 ご両親より電話で「ありがたい、うれしい うれしい」と感謝されました。手術の日より、二ケ月も経ったある日のこと、私は神様からの内流で、「この方がまだお礼参りに来ていない」とのことにてびっくりして電話でお聞きしました。すると、「何日も入院で会社を休んだので今は出勤しています」ということでした。退院後、一番先に神様にお礼参りに行ってくださいと固くお約束していましたし、本人たちも、必ず行かせて頂きますという返事でしたから、行かれたたものとばかり思っておりました。私も毎日多数のご祈願のため、この方のことはすっかり念頭になかったのですが、神様からのお知らせにより気付きました。その方に「神様との約束は必ず守って下さい。守らなければ、次のご祈願の時は聞いて下さらないと思いますよ」と強く申しました。その時に、本人は二か月前とは全く違って、「こんな寒い日にお礼参りに行けという神様はひどい神様ですよね」と言われ、私は「行くか行かないかはあなたのご自由です」と答えました。その数日後、何年振りの大雪の日に親子揃って御礼参拝に行かれたとお電話を頂きました。この方が退院されたころは、珍しく小春日和の暖かい日が続いておりました。もっと退院後すぐにお礼参りに行けば、暖かい日に行けたものを、と思いました。
神様は、約束は必ず守って下さいますが、人間は、心変わりがあるという事を痛感し、私はこのお取次を通じて、人間の心の本質を悟らせて頂い
た、印象深いお取次でした。
二度目の入院のことです。体力が完全に回復してない頃から、ご祈願とお取次ぎの回数が段々と増え、心肺停止より復帰してからと丁度一年後のある朝、突然呼吸停止になり、隣に寝ていた主人が、私の異変に気付き、すぐ救急車を呼んでくれました。息ができない苦しい中「分苑の神の家を建てるまでは、私は死ねないのや」と心で叫んだ時、息が出きるようになりました。
意識がもうろうとしていましたが、病院到着の頃、医師の呼びかけに何とか答える事が出来ました。
一日個室で酸素吸入していましたが、一年前の心肺停止カルテにより、そのまま検査入院となりました。
重症患者扱いで、あらゆる検査をしましたが、発作原因不明のままでした。しかし、強い心臓の薬は毎日飲んでいました。入院中、主人の届けて下さるお松を煎じたお茶を湯呑一杯でも飲むと尿検査機械での数値データーが、すこぶる良くなることを発見し、薬害がなくなるので毎日嬉しくて飲んでいましたら一週間で退院出来ました。九年たった今日、元気に過ごしております。
もちろん、毎日煎じ松にスプーン一杯のお土を入れ、松炭も飲んでますが、病院の薬は全然飲んでおりません。
「聖師様お歌」
白銀も黄金も玉もかずならず
身のすこやかに勝るものなき
私は生まれつき、霊を感じる体質です。幼少から母の宣教活動で、信徒様の家々にあずけられていましたが、どこの家に入って
も光が射してくるところがご神前で、迷わず玄関からご神前に直行しておりました。しかし、人形をお祀りしている家の、置物の人形の目が動いたり、そこの家にいる霊が見えたりと、霊を感じない人にはわからない辛さがありました。学校へ通っている時も講堂で母親を亡くした友達が隣に座ったとたんに、亡くなった母親が、私に「助けて~」とのりうつった瞬間その場で給食を吐いてしまい、先生にひどく叱られたことがあります。友達は、お腹が痛いとか、頭が痛くなると、私と手をつなげば治ることを知っていたので、友達は多人数いましたが、私自身は健康体なのに、いつももその友達の体の不調を受けて、具合が悪い時が多かったのですが、父が元気印でしたから私が霊を感じて発熱していても、学校を休むことは許されず、毎日毎日辛い日々でした。
しかし、宣伝使を拝命し、みてしろお取次ぎを始めますと、神様からの内流で、他の人よりも早いスピードでお取次ぎが出来ることが分かりました。お取次ぎをしていると、どんな身体の悪い未信徒様よりも、熱心な信徒様が私のそばに来るだけで、その方の「因縁・めぐり」を神様が救おうとされますので、私は受ける霊の量が多く、苦しんでいる時間が長いという事がわかりました
。分苑以外の方からのお取次依頼も増え、一日八時間くらいのお取次が何年も続き、ついに心臓を悪くし、とうとう心肺停止となり入院しました。退院後、お取次ぎは主人や、分苑信徒宣伝使の方に分担していただいておりましたが、霊を受ける体質はますます強くなり、寝ていても、誰かが私にご祈願をと思われるだけで身体が苦しいのです。もちろんお取次ぎをすれば回復しますが、近年、その受ける量が格段に多くなり、どーっと疲れが残るようになりした。
ある日、前田比良聖先生のご指導されている、言霊武道『和良久』に出会って早速、分苑に出稽古に来ていただくようになり、初めてから一年十か月になりました。気が付くと、始める前より体力が回復し、お取次ぎをした後の虚脱感が早く治ることに気づきました。
私が倒れてより、大変ご心配くださった四代教主様がお導きくださったと感謝いたしております。
どうぞ、お取次で霊を受ける方は、是非、『和良久』をされることをお奨めします。
『和良久』は四代教主様が御命名されました。
平成二十七年七月八日のことです。日ごろから心臓の調子が悪く。ペースメーカーになってもほとんど機械で信号送りやっと動いている状態が続いておりました。
しかし「開祖様沓島ごもり世界平和記念百十周年、沓島冠島記念祭典」に名指しで参拝するように四月朔日付で案内を頂きました。今まで参拝できていない人は必ず参拝するようにとのことで、その日から自信はなかったですが、潔斎を始めました。
いよいよ七月八日に梅松苑に行きましたが、案じた通りその日は一睡もできず、心臓はひどい不整脈で本部で用意されたマイクロバスにも乗れず、主人の自家用車で現地に行きました。道を探しながら行き、集合時間にぎりぎり間に合いましたが、もうこれで生きてこの港に帰って来れないと死を覚悟しました。
船乗り場までの桟橋が、遠く感じて主人に付き添われてやっと船に乗った時に、海が非常に穏やかで、沓島の方から海風がサーと吹いてきました。途端に心臓が自力で動くようになり楽になりました。これで助けて頂いたと思いました。
冠島まで思ったより早く着きました。老人島神社まで、大きな石で足元も悪く、距離もあるので、船に残ろうと思っていましたが、お世話係の先生に「ちょっとでも行きましょう」と声をかけて頂き、全く自信がなかったのですが、行けるとこまで行って引き返そうと思っていました。ゆっくり歩いて何とか着くことが出来ました。
それでもまだ祭典は始まってなく、無事祭典にお参りできました。だんだん元気になってきて、疲れるどころか復路は皆と同じように歩いて船まで行けました。沓島にも無事上陸でき、また宣伝使代表として玉串奉奠もさせて頂きました。
行きも帰りも海が穏やかで、帰りは行きよりもビックリするくらい元気で帰ることが出来ました。行きは抱えられるようにして歩いて船着き場に行っていましたので、主人が迎えにきてくれた時に大変驚いていました。
沓島はあきらめていましたが、無事参拝できて、開祖様の御守護を大変身に染みて感じさせて頂きました。
分苑代表として行けましたので、松香分苑はこれで大丈夫だと思いました。
第25話~第39話( 信徒様のご神徳談)は資料・リンクのページをご覧ください
私たち夫婦が大本信仰の道に入らせて頂きましたのは本当に単純なおかげ信仰からでした。
昭和三十七年に結婚致しましたが子宝に恵まれず辛い思いをしておりました時、妻の実家の父が鍼灸の先生として故中谷宣伝使を紹介してくれました。(大本の人とは知らずに)その人を通じて松本松子先生に御縁が出来ました。み教えを言心行一致でお取次下さいます先生に傾倒し大本の道に入らせて頂きました。それ以来は大神様を頼りに心強い生活を送らせて頂いております。
最近では平成四年に琵琶湖畔に家を新築致しました。これも家が欲しくて一生懸命努力をしたわけではなく経済的にも無理な負担もなく、返済できる金額でなんとなく周囲の皆様の尽力で建ち上ったような感じでした。
出来上がった時点で聖師様の短冊(神)を床に掛けさせて頂き留守中の無事を祈り、火の用心戸締り等を点検して帰りました。その二日後弟が行きました所、コンセントは差しておりましたがスイッチは切の状態になっている扇風機から煙が上り過熱し出火寸前であわてて外へ出したとの事でした。
いろいろな偶然が重なり大事に至らず大きな御守護を頂いたと思い早速ご神前に感謝申し上げました。
数々のお陰を頂きましたが思い返してみますと入信の動機になりました子供が出来なかった事が大本の神様を知った一番のお陰ではなかったかと思わせて頂いております。
万分の一のお返しも出来ませんが今後共、素直な心で大神様を頼りに励まして頂きたいと思って居ります。
私は昭和五十三年一月に結婚した当時は高槻に住んで、治療所と学習塾とを仕事にしていました。妻は公務員で、豊中市へ通っていました。十二月に長男文治が生まれ、育児休暇の後は復職したので、子供は能勢の妻の実家に預けて毎日見に行っておりました。
昭和五十四年三月頃、ある人の紹介で亀岡に健康センターを作るので来てほしいと話がありました。聖地の近くで、しかも妻の実家にも近いのと、学習塾よりも鍼灸を本業にしたいと思っていたこともあり、亀岡行きを決心しました。六月からセンターがオープンし仕事を始めました。高槻から通い夕方には塾もやっていましたので車で忙しく往復していました。妻は豊中へ子供は能勢に私は亀岡へと三人の家族が離れて子供を見に行ったりすると高槻・亀岡・能勢と移動に時間を取られる毎日でした。早く亀岡に家がほしいと妻と話していました。
そんなある日、新聞のチラシを見ていて手頃な物件に目が止まり業者に電話してもらった時「あなたが買わないと次の方が買うと言っています」と言われ、妻と相談して思いもかけず家を買うことになりました。お金の準備など何もできていませんでしたが、おかげを戴いてどうにかローンを組むことができました。もうその時には長女がお腹にいました。昭和五十五年は七月浩子誕生、育児休暇後、朝は私が子供を能勢へ夕方は妻が連れて帰る。こんな毎日が続きました。昭和五十六年は仕事面ではほとんど進展もなく、経営も大きな負債を抱えて当初の目標とは大きくはずれてきました。こんなことでは先の仕事の見通しも生活設計も立たないと悩んでいました。両親は郷里に帰って治療院を建てて出直したらどうだと治療院の設計図まで画いて進めてくれました。折角、家も買い、聖地の近くで仕事をして来たのにどうしたものかと思案していました。十二月二日に昼休みを利用して万祥殿に参拝をし、月宮宝座、月の輪台、宣霊社と巡拝し、神様にご守護をお願いしました。
参拝から帰ってみると、浅田建設の社長の奥さんが治療に来ていました。鍼治療をしながら、ふと、社長がオーナーの駅前の一番街のテナントビルのことを思いつき、奥さんに「ビルの一角に貸していただける様なところはありませんか」と訪ねてみました。そうすると「階段の上がったところが物置になっているので主人に話してみます」とのことで、すぐに貸していただけるとの返事をもらいました。あまりのおかげの速さに驚きました。その時の私には冒険だったと思いますが、郷里に帰るより自分の力を試すのはこの時だと思い、お金もほとんど無かったのですが、両親に援助を頼み準備をしました。かたずけをして図面を作り内装にかかって年内には看板もチラシも全てが順調に出来上がりました。センターを三十一日まで勤め、昭和五十七年一月六日に高原鍼灸院として開業しました。正月の五日間で移転ができました。このとき妻は三人目の泰代を宿していました。予定日は九月上旬今度生まれると妻は仕事にはいけないと思いました。
それまでに独立しただけの収益を上げて生活が出来る様に頑張らねばと祈る思いでした。おかげを戴いて開業当初から前よりも多くの患者が来るようになりました。計画をしたわけではなく「かむながら」で神様の厚いご守護を戴いて、このようになったのだと思い、胸が熱くなってきました。祈りに応えてくださる大きな神様がおられることは一番ありがたいことです。
振り返って見ると、人生の節々に神様が舵取りをしてくださったと思う事の連続であります。家の改装、公文式の開設、このはな文化教室新築、ルーモ亀岡店開店、この間、昭和六十三年三月次男正文、六十三年六月三男豊文、平成三年九月三女太子誕生と大神様のおかげを戴いてみんな元気に育っています。
最後に十分に神様からおかげを戴きながら何一つお返しが出来ないことを恥じるばかりです。これからは心して足もとから実行していこうと思います。
昭和六十四年八月に私は仕事で工場に出向いたおり荷物用のエレベーターと床の間に両足と左手をはさまれ、かろうじて右手だけで一〇〇K近い荷物をささえていましたがどんどん重みが加わり骨のボキボキ折れる音がします。大きな声で助けを求めたのですがちょうど昼休みの時間で食事に行って誰もいませんでした。その時外にしばっていた犬が吠えてくれまして隣りの家の人がその声が異常で見に来てくれました。ようやく助けられたのです。もう少し、遅かったら両足左手切断で命さえ危なかったでしょう。3ヶ月近くの入院でしたが不都合は有るものの指はついています。
当時、母は信仰しておりましたので家に神様をお祭りしておりました。後日、松本先生に御祈願していただいていた事を知りました。その時松本先生は「命のない所をあなたの信仰のお陰で息子様は骨折だけで済ませ大難を小難にして下さった」と母に言ったらしいです。母の亡き後、私もようやく信仰させていただける様になり、母を初め家族一同松本先生には本当に御世話になりまして心より御礼を申し上げます。未熟者の私ですが先生のおっしゃる様に仕事に頑張り神様の御用を一生懸命やらせていただきたいと思います。
本当に大きなおかげをいただきました。
私の姉より「ある宗教の人が勧誘にしつこく来て困っているのでご祈願して欲しい」と頼まれ、妻が早速神様にご守護をお願いしました。それから二~三か月たったある日、妻から「頭が痛いのでお取次ぎをして欲しい」と頼まれ、いつも自分でお取次ぎをしている妻なのに変だなあと思いつつ、私がさせて頂きました。私は誰かのご先祖様が救って欲しいとかかっていると思っていましたが、家内にかかっている霊が「私は龍神です。以前神様からの命令であなたの姉さんを他宗教よりの勧誘からお守りをしていましたが、今日で任務も終了しましたので報告に来た。」とのことでした。そう言えばその御祈願をお願いしたことをすっかり私共は忘れていたのに、神様はお願いした一つ一つの事をいつもきっちりと守護して下さっているという事を龍神様を通じ教えて下さったことに気付き、今までの自分の態度を深く反省し、神様に対しても申し訳ない気持ちでお詫びを申しました。 姉もこの件はすっかり忘れていたようで電話で、「そう言われれば最近プッツリと来なくなった」との事でした。妻がわざわざ私にお取次ぎを、言ってきたのも、竜神様が私に伝えたかったのだと思いました。
この時以来私は、神様に一度お願いした事は必ず聞いて下さるので、お願いした後は、必ず御礼を申し上げることを忘れないように心掛けています。
大学の講義で隣り合わせになった主人から「立替え立て直し」の冊子をもらった時、私の前に明るい光が差し込んだような気がしました。小躍りするようにして何度もあの冊子の頁をめくったあの感激は今でも覚えています。
それから、松本先生のお導きで天恩教のお正月講座を受けさせてもらいました。十九才の初春だった。天恩教での初日に捻挫をして、右足が腫れあがり困り果てている時に、“お土”で湿布そして下さり、三代教主様の御面会を頂き、帰りには、すっかり歩いて帰るというお陰を頂きました。その講座の帰り際に黒門の前で御礼を申し上げている時、四歳ころの記憶がよみがえってきました。私の実家は大阪府の能勢というところで天恩教まで車で四十分ほどのところです。畳職員だった義祖父は自転車にリヤカーを引っ張り畳の商いに出かけていたとの事です
私もSL列車の煙を見たくてリヤカーの荷台にしゃがんでつれていってもらったのを覚えています。ある日、養祖父が「ここは偉い神様がおらはるところやで。」と立ち止まり合掌していたのを思い出しました。
日を改めて主人に綾部のみろく殿につれて行ってもらった時にも思い出したことがあります。私は主人と大学で知り合ってから、おほもとの神様についてお話を聞かせてもらいました。そして夢の中で、たびたび白髪のお婆さんの凛とした姿が出てきました
。そのおばあさんが、大本開祖様でいらっしゃったのであります。あの時の驚きは、背すじに水を打たれた時のようであったと覚えています。
また、ある日の夢の中でこんな夢を見ました。「錦の御旗が揚がった。めでたい。めでたいことじゃ。」と霧深い山里の田のあぜ道を数人の男の人が旗を揚げて歩いている夢であります。その旗の柄とみろく殿正面の御神旗と全く同じものだったからであります。
現在は、亀岡に住んで六人の子供を授かり仕事と家事に追われ毎日ですが、神様の御守護を頂き充実した生活であります。今は、この身がどこかでお役に立てば、また、そうしなければとつくづく思うこのごろであります。
平成四年五月五日長生殿参拝を家族揃って致しました。いつも揃って参拝していますが、その時同じ一つの思いを持ちながら必死に、真剣にお祈りしたことはございませんでした。それは娘が大変な病気になり六月一日に大手術を控えていました。
お松とお土、そして梅干しもいただきました。無事に手術も終わり、大手術にもかかわらず手術後も順調に回復致しました。以前、私は松本先生より「ある信者様が、聖師様に『聖師様祈ったらすぐに聞いてもらえる力を下さい』とお願いしたら、聖師様は『そんな力を与えたら、すでに自分は力があると慢心する、だから泣きの涙で必死にお願いしたら、お蔭をやるのだ』とおっしゃっています。神様に真剣にお祈りすれば正しい事は必ず聞いてくれる」との教えを下さったことを思い出し、今回は身をもって体験させて頂きました。
私が京都のある大学に行っていたころ、友人にいろいろな宗教を信仰している人がいた。彼等の話を聞いても納得つかずに、その友人の先生に当たる人の話を聞きに遠く千葉県までも行ったこともありました。しかし、話を聞けば聞くほど矛盾してくるのです。どこの宗教も自分の処が一番正しい教えであるというのです。いよいよわからなくなったので、私は「もしこの世の中に神様や仏様というものがあるのなら一番正しいところにお導き下さい」と四畳半のアパートの室の中で対象に拝むのでなく目をつぶって一ヶ月程、毎日お願いしました。そのとき、私は信仰をしていませんでしたので、お宮、お札、仏壇など一切ありませんでした。
そして、一~二週間後に学校のクラブの送別会に泊まり掛け参加した際、私の友人が私の神の事を話すのを聞いて近付いてきました。そして、私が今まで疑問に思っていることを訪ねると、いとも簡単に答えるのです。
私はその答えのすばらしさに驚いて「一体何処でそれを聞いたのか!」と問い返すと、『大本や』大本ではこんな事常識やと教えてくれた。
その時はもう夜中の一時か二時だったと思います、興奮して朝の四時ころまで話を聞き「その大本に是非案内してくれ」と頼んだところ「丁度別の人を明日案内することになっているから、十二時に京都駅へ来てくれという事になり、私は二~三時間ほど寝ると、大至急アパートに帰り、タオル一本もって京都駅に向かい、そして大本の聖地のある亀岡にやって来ました。
見るもの、聞くことすべてが素晴らしくてただ感激するばかりでした。そのまま、四泊五日の修行を受けました。何も支度をしていませんので下着も買って着替えました。
大本を紹介してくれた友人も二年以上クラブで毎日のように顔をあわせ、私のアパートにも何回か泊まりに来たことがありましたが『大本』の話など一度も聞いたことがありませんでした。
そんな彼が大本の話をしだしたのは、私が「一番正しい、神様の所に案内して欲しい」と一ヶ月間祈った事が通じたものと思います。
この度、松香分苑ではご神徳談集を出すことになりましたが、私には発表する程のご神徳談もなく私自身平素熱心に祈願もせぬ信徒でありましたのでその資格はないものと思っていましたが考えて見ますと、今年七十三才まで長い年月、ひ弱であった身体が大過なく過ごさせて頂けたのは大神様ご神仏による大きなご神徳を頂いている賜と気が付きましたので筆をとらせて頂きました。
波静かな時は当たり前で過ごし、荒天にあってそれを無事に乗り切った時のみお陰を頂いたと思っておりましたが凪さの日を送る時こそ大きなご神徳なのだと思うようになりました。
平成五年一月十五日鼻血が出て夜になっても止まらず、就寝することも出来ず祝日の為に病院も休み、翌日耳鼻咽頭科にかかりました。二月十五日祝詞奏上中鼻血、三月十日も祝詞奏上中鼻血、月の半ばになると鼻血が三か月も続きました。
この頃は、大寒で風の引き易い季節でありましたので医者に罹る事によって膜を丈夫にし、各気管関節の調節も整備させて頂いたものと思います。
この鼻血が脳で破られたら脳溢血脳卒中だったと思いますとゾッとする程恐ろしさを感じ大神様に感謝致しました。また、こんな事もありました故宮崎正先生が何処か身体に悪い処のある人は今の中に入院するか医者に罹って健康管理が必要ですよとのお話があり、私も思い切って甲南病院に緑内障の手術を受けました。
その時、松本先生は度々甲南病院まで足を運ばれ御見舞いを賜り手術を受ける時刻には大神様にご祈願までなさって下さいました。
その後、隣の人の軽い筈の白内障の方が再入院され、重い筈の緑内障の私が視力一・〇と回復しました。それから、叙勲の時もご神徳と思います。運輸大臣受賞は会社側の落度により退職後に頂きましたが、当初、現役でないと叙勲外となり、候補止めとなり諦めておりましたが、心の中で朝晩真剣に大神様に頂ける様、七月二十四日~翌年三月二十九日の長い間祈りました。そのかいあって会社より叙勲の沙汰ありとの連絡があった時早速大神様に心をこめて御礼申し上げました。会社役員のご支援は勿論の事ですが一六段階の審査や手続きを無事に通して下さった事は大神様のご加護の賜のと感謝致しました。
人力で規則や規定は破る事は出来ない筈でありましょうに大神様のご神徳と存じます。これも一偏に松本前分苑長のご指導ご支援ご祈願のお蔭でございますありがとうございました。改めて御礼を申し上げます
昭和五十年新築のおり信仰生活に入っていた義母の希望で神様をお祭りさせていただきました。それから十二年程たって左から右へ流れていた神様のお話が私の中で上から下へと流れるように強く感じられました。
以後、私の願いはまず夫婦揃って信仰させていただきたいと思う様になりました。神様に御祈願させていただいて五年目義母が亡くなって三年目の平成五年十二月末日に主人が大本道場修業に参加、修了書をいただいて帰りました。今は、朝・夕拝の励行分苑の月次祭の参拝また、祭式練習と私以上にしっかりと信仰の道を歩きはじめています。これは神様からいただいたおかげの中で私にとって大きなおかげです。
その間多くの方々にお力添えいただきました。「やっとここまでこれた」とも思い初心者の私達ですが、神様にお願いしながら信仰の輪を広げて行けたらと思います。
七年前私は六甲山頂のホテルに勤めておりました。お昼休みに天狗岩の見晴らしのよい高台に行き、帰りに崖より足を滑らし六メートル下に落ちました。
一緒に行っていた人が私の声に振り向くと私の姿はなく、驚いて駆け付けて下さいましたが、もう死んだと思ったそうです。
天狗岩と呼ばれる名称のごとく岩ばかりの所ですが落ちて倒れていた場所は、ほんの少しだけお土があり、そこに落ちたそうです。 一緒に行っていた人の中にマイクロバスの運転手さんがおられ、すぐ病院に連れて行って下さいました。
脳内出血もなく打撲傷で約四か月の入院で済ませて戴きました。大難を小難にして下さり、本当にありがたい事です。もったいないおかげを頂きました。
私共夫婦はいつも大難を小難に小難を無難にとおかげを頂いております。
中でも義母(故)「死ぬ時が一番心配です。」と、松本先生に打ち明けておりました。
先生は「神様にお願いすれば必ず楽に死線を超えさせて下さいます」と言われていたのです。
義母が長女の住む田舎の夏祭りに行きました。その時、懐かしい人々と会い、又、元気にお祭りのごちそうも頂いた日の夜中に血圧が高くて倒れ、長く患う事なく、しかも、娘達にも会い十分な看病を受け畳の上で二日後に亡くなりました。
郷里で長い間の友人や近所の人々に見送られて霊界に旅立ったのです。
神様は生前のお願いを叶えて下さったのです。
義母だけでなく、私共や嫁いだ姉達一同も大きな大きなおかげを頂きました。
今年二十年祭を無事行なわせて頂き当時の大きなおかげに改めて感謝いたしております。
母は明治生まれ現在八十四才になりますが、お陰様で毎日を元気に過ごさせて頂いております。
若い頃、思いものをもって足を挫きそれが元ではれが引かず足首に油がたまる様になり、病院で抜いて頂くため何度か通院したりしておりましたが、ある日松本先生の「それはお土が一番よろしいですよ」とのことでお土の湿布を始めまして十日目位から、少しづつ踝のはれがひき長い間、年と共に重くなる足の痛みがすっかりと取れました。その後、母は大変喜んで誰方にでも「お土がよい、本当に神さんのお土は良いから」と話しながらの毎日です。我が家ではちょっと虫に刺されてもすぐお土ですから、誰もが知っているところにいつも備え付けております。
あれは三代様教主様の五十日祭の日の事でした。足がうずいて祭典中正座が出来ず痛くてたまらなかったことを覚えています。
神様によくお願いして神戸に行き、分苑の月次祭に参拝してから家に帰りました。足の方はますます痛くなり、とうとうガマンできず病院に行きました。その時、既に足には、赤い斑点が出ていました。
先生はそれを見て「神経に菌が入っているので、もっとひどくなるが二週間もすれば治りますよ・・・」と言われましたが、今でさえ夜も眠れないのに、これ以上ひどくなるのかと思うと、私は、必死の思いで神様にお祈りし、松香分苑長の文子先生にもお願いしました。
そして、二、三日後娘の家の月次祭があり、足を引きづりながらもお参りしました。しかし翌日になると痛みはひどくなるどころかやわらいできました。
私は驚き、思わず御神前に走り、何回も何回も神様に御礼を申しました。 一週間足らずで治ってしまいました。あらためて大本の信徒である事を、心からありがたく嬉しく思います。
入信間もない頃、私は三十七才の妹を亡くしました。名前も婚家の姓に変わっていましたので、私はこの妹を松本先生ご指導のもと幽家合祀にするつもりでいました。
ところが十日目の早朝、その妹が夢枕に現れ自分を復祭にして欲しいと懇願しました。その時交わした言葉を今でもはっきり覚えています。私はその約束通りその朝いちばんに大本本部の霊祭課に連絡し、復祭の申し出と十日祭の申し込みが間に合ったという経緯がありました。
私は、急に地球が大回転と急降下をするかのようなひどい目まいに、襲われた事があります。“ねえちゃん ねえちゃん”と泣く妹の声に導かれるように最後の力を振り絞って神棚の、みてしろを、かかえ込むよう、その場で指一本動かない意識が遠くなる・・・ということがありました。
もし、あの時妹がみてしろの所まで導いてくれていなかったら・・・と、不思議な事にその時刻に私の腕時計は止まっていました。
娘が受験勉強に疲れ、うとうとしていた時うっかり石油ストーブの上に目覚まし時計を乗せてボーッとしていた時です。急に娘は「エリちゃん エリちゃん」という私の妹叫び声で目を覚ましたそうです。もちろん、部屋の中に煙とススで何も見えない状態になっていました。またもや、大難を無難におかげをいただいていました。
人生の大海を渡るには、大小数知らぬ悩み苦しみが次々と押し寄せてまいります。その大波が年々大きく荒くなって・・・もう絶えきれそうになかったのに~いつの間にか無事、私の後ろに過ぎていく、身体の弱い私には数多くの奇跡を又家族には一大直前に命拾いをと、いくつかの節々で亡き妹からの感謝のメッセージを感じるのです。
神様の事を知らずして逝った彼女を通してこのようないくつかのご神徳をいただき妹ともども大神様の多大なご守護に心より感謝申し上げております。
私は、週に二回片道車で二時間かけて分苑のお琴のお稽古に通っていました。平成四年十月のある朝、なんとなく、今日はお稽古に行きたくなく用事があると言って、断り休んでしまいました。次の日台所でグラスを洗っていた時、グラスが割れて右手の親指を六針も縫う傷をしてしまい、私の仕事は絵を画く事なので右手が使えなくて、とても不自由な思いをしました。神様のお気づけ来る事を知らされました。
それ以来常に反省する事を旨とし、感謝の心をおもって過ごすようになり身体も以前よりずーっと元気になりました。
昭和五十三年七月二十日明日から夏休みという日の午後三時頃(当時小学四年)五分ほど前に息子と一緒に出て行ったばかりの友達が「塚ちゃんが交通事故で救急車で病院に運ばれた!」と飛び込んできました。私は、その言葉を信じませんでした。
しかし、その病院に行くと、わが子が意識不明の危篤状態、冗談じゃない、そんな馬鹿な、親である私でさえ病室に入れてもらえない。身体は震えてガクガク・・・
その時、弟が神様を信仰している事を思い出し、すぐ電話で助けを求めると(もう既に松本先生には感じていたそうです)私はこの時に初めて大本と出会いました。
危篤状態の息子を病院に、一つ上の娘を残して必死の思いで、京都亀岡に行き、ご祈願をし、その後日、講座を受けました。
高熊山に登って、目を閉じ、合掌中、頭の上の方に、三点の光が、ちょうど三角形を描くように写り出され、「息子は助かる!」これは、きっと神の御光りではと思いました。
その夜自宅に電話すると「少しだけど目が開いたよ」と、実に意識が失って二十七日ぶりの事で、それはそれは嬉しかったです。
その光は開祖様、聖師様、二代様ではと思いました。
綾部から講座を早めに切り上げ亀岡でもう一度ご祈願してもらおうと立ち寄ると、その日京太郎先生が大勢(五十~六十人位)の信者さんのお取次をしておりました。
私は、とにかく息子が助かって欲しい一念でパッと前まで行き、「お願いです、今息子が交通事故で意識不明です助けてください!」すると、京太郎先生は「皆様も一緒に祈って上げてください。」と言って神殿に向かって大きな声でご祈願して下さいました。京太郎先生が、立派なお立場の方とはまだ存じませんでした。
亀岡から戻って病院に行くと、お医者さんも看護婦の皆さんも、神様のお陰ね、と言ってくれました。
松本先生も神戸から横浜へわざわざご祈願に足を運んでくれました。その後は一日一日と回復に、(現二十四才)今日に来るまで
には、親子共々精神的にもそれは苦労し挫折もしました。しかし大本の皆様、周りの方の暖かさに育まれ、少し障害は残りました
が、日常生活には殆ど影響なく、息子も明るさと、真面目さで仕事、ボランティアにと頑張っています。
大本の皆さん方は礼儀正しく、偉ぶらず、親切な方々で月次祭に出席することで、不安も取れ、また今月も頑張ろう、神様が必ずいい方向に進めてくれると信じています。
現在、息子は分苑で毎月のお祭りの後に手話を皆様にお教えしてお返しをしてくれています。
これまでに、神様から神徳を頂いたことは数えきれませんが、特に鮮明に記憶していることは、ご神水のご神徳です。
次男が幼い頃、風邪を引いたとき、吐き気と下痢で、何にも食べられず、薬を飲んでも吐いてしまいこのままでは大病になってしまうのではと、心配していたところ、ご神水を思い出し、次男に、飲ませたところ、気分が落ち着いて少しずつ食べれるようになりました。ご神水のありがたさを、しみじみ感じました。
また、長男の高校入学の朝のことです。入学式に臨むため、私と長男は車で出かけましたところ、五、六分走った頃長男がクシャミをしました。初めは風邪を引いたのかな、そのうち治まるだろうと軽い気持ちでいました。ところが、クシャミが治まるどころか段々ひどくなってきました。今さら家に戻って薬を飲む時間もないし、通りに薬局も見当たらずどうしようかと思いました。
ちょうどその時、妹の家の近くに来ていて、ご神水が脳裏に浮かびましたので、妹の家に寄ってご神水を頂きました。車に戻ったとき、不思議な事に、二十分近くもクシャミが続いていたのが、ぴたりと止まってしまいました。私も長男も、ご神水のご神徳に驚くと共に、感謝の念で一杯でした。お陰で無事入学式を済ませました。
また、私が初めて膀胱炎になった時、ちょうど土曜日の夕方頃でしたので病院も行けず、薬局も閉まっていたので薬も飲めずにいましたが、夜中に段々ひどくなり、そのうち血尿が出る様になりました。
その時、私はご神水が頭に浮かび早速何回かご神水を頂きました。次の日、日曜日もご神水を頂き何にも食べられず寝ていましたところ、夕方頃少しずつ良くなり、次の朝少し尿が出ました。念のため、病院へ行って検査をしてもらったところ、何も尿に異常ないとの事でした。土曜日の夕方頃から、ご神水以外何も口に入れていなかったのに、治っているのです。まさにご神水のご神徳です。
十三年前文子様(現分苑長)親子と三才の長男を連れて、安産祈願を兼ねて聖地へ参拝した時の事です。
綾部に着きましたが急に長男が四十度近い熱を出し、このままでは肺炎になってしまうと言われ、お取次ぎをお願いしましたが、翌朝になっても熱が下がりません。日曜日でもあり、お医者に診て頂くにも困っていました。
すると、文子様が「今から亀岡へ行き、教主様にご面会させて頂こう」と言われタクシーで亀岡に向かいました。教主様にご面会できるかどうかも分かりませんし、これ以上容態が悪くなってもと、不安もあり、迷いました。
しかし、文子様の顔には少しの迷いも感じられませんでした。亀岡へ着いた時は御面会時間がすでに過ぎていました。しかし朝陽館に行きますと、私たちを待っていて下さったかのような教主様が帰館され、廊下でご面会させて頂きました。
子供は高熱でぐったりしていました。三代様がお通りになられた時、子供を抱いてご面会させて頂きました。
文子様が「子供が高熱を出しているんです」と話してくれました。「それはいけない大事にして下さいね」とお言葉を頂きました。そして御礼を申し、子供を抱き部屋に入られるまでお見送りしました。
その間、数分の短い時間の事の様に記憶しています。お見送りした後『あっ!』と驚きました。今まで触れるだけで熱かった子供の身体がいつの間にか、平常に戻っているのです。元気になりました。
ご神徳をいただき感激し涙しました。直接体験した初めての事でした。
あの時の三代様の崇高な御姿を一生忘れません。
八月の二者面談で担任の先生に、第一志望校合格率十%だと言われましたが、何としてでもその高校へ行きたかったので、諦めませんでした。十月と十二月に毎年とても大事なテストが行われます。そのテストで良い結果を出さなければ、合格どころか受験させてもらえません。そこで九月に一人で京都に行き長生殿の献労奉仕をさせて頂きました。長生殿が千年持つように必死で床を磨きました。その必死な気持ちが神様に通じたのか、十月、十二月合格ラインギリギリの点を取ることが出来ました。
もちろん今までの自分からは考えられない点でした。それでも担任の先生に、まだ五分五分だと言われた冬休みにもう一度京都へ行って最後のお願いをしました。合格祈願もして頂きました。
勉強も自分なりに頑張ったし、毎朝お給仕をさせて頂いて神様に必死にお願いしました。これで落ちても悔いはないと思いましたが、入試が終わって時、正直言ってダメかと思いました。しかし、合格しました。信じられませんでした。神様が不可能を可能にして下さった、「有難い」と心に強く感じました。高校受験で初めて神様の偉大さ素晴らしさを知りました。第一志望校に合格できたのも神様のお陰なので、今後はいろいろな御用をさせて頂いて一生かかって恩返しをしたいと思いています。
そして、四代様には一月の面会で励まして頂き、本当に感謝しています。
私は、職場や家族にも暴力を振っておりました。
私は、何とか暴力を直す方法は、ないものかと松香分苑長の文子先生に相談しましたところ『神文を毎日読めば直ります。』と、強く言われ、神文を下さいました。
それからは、毎日御神前で、神文を続けて読みましたところ、気がつけばいつの頃からか、暴力を振わなくなっておりました。今では神文を有難く思っています
初めて山本様ご夫妻に、本部へ連れて行って頂いた時の事、その時がご神徳の初めだったと思います。そうです。初めて黒門をくぐらせて頂いたその時に、最大のご神徳の内流を頂いたのです。
それは、木の花桜のお花見の時でした。山本様ご一家と伊藤さんの家族(その時伊藤さんも初めての本部参拝でした。)そして私の家族五人(上の子は三才、下の双子は一才でした)丁度その頃は車の調子が悪く、ハラハラドキドキの道中でしたので、夜の七時頃やっと本部へ着いた時には、どっと疲れてしまいました。が、夜十一時過ぎても寝付かれず、何度も寝返りを打ちながら数時間が過ぎましたか、ふと気が付くと、万祥殿におりました。
そこには、殿様のような姿の小さいおじいちゃんが、腰元の様な人が沢山いる中におられました。私が参りますと、私の両手を取られて「やっと会えた。よかった!」といわれ二人でピョンピョン一、二メートル程飛び上がり喜んで下さいました。
後で思い返してみると、それは日出磨尊師様でした。今でもその時の光景が私の頭に鮮明に残っています。そして、この内流を頂いた夢を思い起こす度に涙が出ます。
それから二ヵ月して、私は大本へ入信させて頂く手続きをとったのです。入信するなどとは夢にも思っていなかった私ですが、やっぱり神様はしっかり綱をかけて下さっていたのです。
神様―ありがとうございます。
大本に入信させて頂いてから、私ども家族の一人一人は、いくつものお陰を頂きました。日々の生活の中にも、後で思うと神様からの非常に大きなお陰を賜っていることも、たびたびです。
その中で最も大きなお陰は二年前に息子が交通事故にあい、助けて頂いたことです。
二年前の六月に分苑の月次祭に息子と二人お参りさせていただいた後、近くの公園に遊びに行き、その帰りに車にぶつかりました。
事故を知った私は「神様にお参りをした後なのになぜ…」と思ったのを今でもはっきり記憶しております。
現場までの数分間、私は大変なことになったけれど、なぜか落ち着いていました。
先ず頭の中に三代様、日出磨尊師様のお姿が浮かびました。「どうか息子を、お助け下さいませ。惟神霊幸倍ませ。」と何度も繰り返しておりました。
現場に着くと大勢の人に囲まれて息子は横になっておりました。一人の男の方が「脈も普通ですし、血圧も正常です。」といってくださいました。その方の声が神様の声の様に思えました。
私が名前を呼ぶと目を開き安心したようにまた、目をつぶりました。救急車の中で山本様がお取次ぎをして下さり、病院ではおひねり様を頂きました。
検査の結果有難いことに二日入院していただけで済みました。分苑に報告の為寄らしていただくと松本先生はじめ、分苑信徒の皆様が、事故の後、すぐにご祈願をして下さったことを知りました。そのとき、息子の身体がさっと黄金の光で包まれたそうです。
先生は「坊ちゃんは、神様が助けて下さいました。もう大丈夫です。」とおっしいって下さり、それを聞いた私は、何も言えず唯、嬉しく頭を下げおりました。
それからしばらくして、検査があり病院に参りました。お医者様は、「もう良いでしょう。普通の生活に戻ってよろしい。」と言って下さり、すぐに息子と二人で分苑に御礼に参りました。
「坊ちゃんは、良くなっていますが、まだ完全では有りません。」「お土で頭を包み、二週間、部屋を暗くして絶対安静にしていなさい。」「ここですっかり直しておかないと、後で頭が痛くなったりすることがあります。」先生のお言葉は神様からのお言葉です。私は背に水をかけられたよう
な気がしました。
すぐに風呂敷程の布にお土を厚く塗り、目がかくれる程、頭をくるみました。日になんどもそれを繰り返しているうちに、しばらくして、何とも言えない臭いがしてきました。
「悪いものを神様が取り除いて下さっている。この子は神様が絶対に守って下さる。」とすべてを神様にお任せ致しました。
二週間目の朝、松本先生にお電話を致しましたところ「良く頑張って下さいました。」「もう大丈夫です。」私は嬉しくて先生のお声を聞きながら声を上げて泣いてしまいました。
「神様と松本先生に助けて頂いた!分苑の神様にも!」この言葉が何度となく私の口から出ました。神様からお陰を頂く事ができた息子は本当に幸せなのだと、つくづく感謝いたしております。
先生は今ではとてもお元気ですが、当時はお疲れが出て本調子ではありませんでした。それを息子の為に長い間ご祈願をして下さり心から感謝し
ております。その時の私は先生のお身体が気になりながらも「先生、どうか神様にお願いして下さい。」と必死で祈っておりました。
神様から尊いお陰を頂いた私たち家族は、これからも、常に感謝の気持ちを忘れず、信仰的に暮らさせて頂かねばと思います。
また、息子が成人してこれを読んだ時、自分が神様から大きなお陰を頂いたこと、また、多くの人達に助けて頂いたという感謝の気持ちを思い出して欲しいと願っています。そして、人を大切に常に愛を忘れずにいて欲しいと思います。
人には各々人生があります。一九一五年五月四日広島で生を受けた私は、今年で満七十八才を数える。この間私には私なりの生き様やひたむきの人生がありました。
特に激動の昭和期を死もの狂いで切り抜けてきた私にとっては、語り儘せぬ思い出があり、感謝してもしきれぬご守護があったと思う。満州事変があり日中戦争がおこり、大東亜戦争、そして敗戦、経済復興、今日に至る間に果たした私の役割にも、目に見えぬ定めだとは云え六十五才の齢の限界迄、日本人として民族復興の為無我夢中で働いて来ました。
徐州会戦、ノモンハン事件など、死の恐怖を呼び起こす嫌な思いでもありましたが、戦場はすべて地獄の沙汰でした。
私の入信は『おほもと』誌(一九九一年七月号一〇九頁『視力回復と道場修行』の通りですが孫に会いたい一心から綾部で修行中の豊橋の娘たちに、出向いて途中参加の形式をとりました。
それなのに幸運にも、その時の御舟便乗の おほもと 写真が、一九九〇年五月号に掲載され、有難いやら驚きで改めて修行し直しに亀岡に行き証書を頂いて、晴れて綾部に御礼参りに参上した次第です。
山本松香分苑分苑長とは豊橋の娘を通し種々人生相談に預かりましたが、もっとも印象的だったのが朝拝夕拝を真剣に為すことに依って、ご神徳を得なさいと云うことでした。
『大難を小難に 小難を無難に』 おほもとのりとを朝夕唱えることに依って、魔訶不思議それが実現してきたのであります。
どなたにも、またどんなご家庭でも一つや二つの悩み事はお持ちの様ですが私のところの大難は
1、 土地の因縁に振り回されている事。
2、 後継者の長男が酒乱で悩まされている事でした。
『のりと』が消し行く悩みことと言うのか、今では土地の境界線のごたごたや、長男の酒乱の気配が落ち着いて居ります。ご神徳を頂くとはこの事であると思います
平成五年度・十月みろく大祭の記念品を開けた時のことでした。教主様扮する西王母の写真を見た瞬間“怖い”と”早くかざらなくては“と言う二つの気持ちがわきおこりました。
翌日、”悪霊退散“と言う言葉が盛んにわきおこってくる中で早速に額を買い求め、かざりました。
実は、半年くらい前より、寝て起きると、私の布団の中から悪臭がはなち、近頃ではその悪臭が特にひどくなってきていたので変だ、変だと気にかけていたところでした。
ところが、それからはその悪臭がなくなったのです。悪霊と暮らしてきたのかと思うとぞっとすると共に、悪霊を祓ってくださったのだと感無量です。
早速、霊界物語の四十八巻・愛善信真の所を読み返しました。新たな境地が開け、新たなる一歩を踏み出したところです。
開教百一年、長生殿で行われた初めての、また、私にとりましても初めての節分大祭に祭員として奉仕させて頂くことが出来ました。また、同時に大変なお陰を戴きましたことを感謝しております。
当日、朝は前夜積もった雪で真っ白に雪化粧した神苑と長生殿がとても美しく印象的でした。殿内は意外と暖かく心配していた冷え込みもなく、初めての経験で大変緊張しましたが無事に御用を努めることが出来ました。
一週間後の事ですが、知人一家を同乗させてスキーに行った帰り、高速道路の入口直前で車が横転するという大事故に遭いましたが、奇跡的にも家内が手に切り傷を負っただけで他の同乗者には全く怪我はなく、車の損害だけで済みました。もしも高速道路本線に入ってから事故を起こしていたら今頃どうなっていたか…
実は四か月程前に夢の中で全く同じ事故を見ており、その時は大変な結果になっておりました。大難を小難に替えて頂けた訳で、大神様の御守護に感謝いたしております。今後もご神業に一層の奉仕をさせて頂こうと思っております。
私が大本へ入信させて頂いて、二年が過ぎようとしています。それまで、友人から大本の神様の話を時々聞かせて頂き、それまでも神様の存在を信じていた私は、ぜひ聖地へ行ってみたくなり、実現しました。
聖地は、とても広大で気持ちのいい、心が洗われる場所であり、そこで初めて、大本松香分苑長の山本先生にお会いすることができ、山本先生から大本のいろいろなお話をお聞きすることが出来ました。
一つ一つのお話のご神徳をいただいた「すごい!」と思うものばかりで、私も、私の家族も是非自分たちの今までの罪を神様にお詫びして心の支えになっていただきたいと思い、入信させていただきました。
この二年間、まだまだ何にも出来ないまま過ぎてしまいましたが、毎日神様にお詫びして、お祈りすることで、神様にご守護して頂いているという安心感がもてるようになりました。
これからも神様のことをいつも心の中に思って、毎日を送って行きたいと思います。
思いおこせば二年半前私供は浜松の店を「和風れすとらん」として大改装をする事に決心をした折り山本先生御夫妻にお目にかかり、はじめて大本松香分苑分苑を知り、あらためてびっくりしました。その折に松本先生から初対面なのに「色々苦労だったろうが、もう母のふところに抱かれた気持ちで、しっかり大本について来なさい」と私の手を握り締めてくださいました。その時の感激は決して忘れまいとして早二年となりました。
店の営業も不況の中にもかかわらず忙しく家庭及び従業員全員が一丸となって勤めさせて頂いております。
また、店の定休日を利用して分割修行し、大神様と祖霊様の鎮座祭ができ、また毎月の月次祭をさせて頂いております。そのお陰で、この頃では何もかもが良いように回転して参りました。
これからも「一心岩をも通す」「一日一膳」をモットーに大本のお力と光を頂いて一生懸命に御用させていただきます。
商人なのに余りお世辞は好きでない主人、真面目な性格それだけに団体に入ると、自分の意に反することも時には応じなければならないことも多々あるわけです。
今年の正月の松が取れる前の事です。ここ数日間、四面楚歌の様な、顔色は悪く、無言で食欲はなく浮かない顔、何か一人で深く悩んでいる様子、そんな主人を見ていると家族みんなが暗く、無理矢理重い口からやっと内容を喋ってくれました。
そこで、私が神様にお取次してもらえばと勧めると、すぐ何でも神様神様というと怒っていたのに、さすがこの時は参ったのでしょう、「じゃ、頼んでみようかな」と答えが返りました。
現分苑長(山本文子様)に、早速電話で内容をお話し神様にお取次をして頂きました。
次の日、分苑長の説明を受け、ご指導の通りに事を運び実行しました。すると、次の日には妄想の面もあったようだと、一日一日と心と顔が晴れて行くのが解り、その後その問題に関しては何事も無く、前より積極的になった様にも見えます。
はっきりご神徳が頂けた事が分かり、神様に感謝し、御礼申し上げました。
その後、月次祭、五月のみろく大祭と気持ちよく出してくれました。
私は今まで人型は四〇〇体位、今年は初めて人型を一四〇〇体も出来ました。
次から次へと悩みが絶えないので、はっきりした目に見える「おかげ」を頂きたい、それには先ず人型からと心に決め、大本の神様を知って頂くためにも多勢のお友達、お客様、ご近所の方に、自筆で書いてもらう事を目標に頑張りました。(目標一〇〇〇
体でした)最近ではどんな「おかげ」が頂けるのか楽しみで、事が起きても神様にお願いした後は信じて悩まない事に、こういう気持ちになれたのも大きなご神徳だと思います。
長生殿上棟祭での餅まきのお役を地方機関長にさせて頂いた時の事です。そのころ松香分苑長であった松本先生が身体の具合が悪いときでしたので、その代理で餅まきのご用を私がさせて頂きました。
その当時は松本先生が入院されていましたので、私ども夫婦が豊橋から神戸の分苑まで毎月車で通って月次祭をさせて頂いておりました。
松本先生が不在の月次祭は参拝者が極端に少なく、分苑の維持が大変でした。この時、私は入社五年目ぐらいの時で、給料の実質の手取りが六万円ぐらいでした。その中から神饌物と教主様へは一万円、毎月欠かさず続けさせて頂いておりました。高速道路の通行料が出せずに国道を走ったりしていました。
月次祭終了後はすべての元のように片付けてから帰るため、豊橋に着くのは毎回深夜でした。
又、長男が赤子の頃、背中に背負って祭式講習会にも出ておりました。祭式指導員補を頂いてからは指導の補助にも行かせて頂いておりました。
このころ新しい信者様を祭式講習会にご案内した際に、私は身体が弱く綾部から豊橋迄の約三〇〇Km、時間にして約六時間ぐらいの道のりを一人でとても運転できない状態でしたので、案内した方に運転を代わってと頼みましたが、「出来ない」の一言で結局妻が運転しました。妻は妊娠中でつわりがひどく食べられない状態であったため身体が極度に衰弱し、無理が重なり祭式講習会を終えて帰宅した翌日、身ごもっていた子をおろさなければならない状態となりました。
これだけ命がけでお世話をさせて頂いたこの方も、分苑と私達の夫婦の悪口を本部にまで訴えて、分苑を出て行かれましたが、すべて私ども夫婦の身魂みがきだったと思います。
このように自分たちでできるご用は命がけで一生懸命にさせて頂いておりましたので、そのご褒美として大神様が餅まきのお役に使ってくださったのだと思います。その後、私の亡くなった父がお取次ぎの時に出てきて、「健が御用をしてくれるので、私は今、霊界で長生殿の大工の仕事をさせてもらっている」と嬉しそうに言いました。父は生前に大工をしており、戦争で焼き出されてから仕事をかえて最後には保険会社に勤めておりましたが、父の天職奥はやはり大工だったのかなと思わせていただきました。もちろん神様からすれば私どものしていたことは小さい事かもしれませんが、大きなお陰を頂きました。
七月三日に亀岡聖地を訪問し、皆神山の祭典に対する本部への正式なお願いに、長野主会の次長様と行かせ頂きました。その夜、綾部の松香館に移動して宿泊しましたが、部屋の掛け軸が三代様の皆神山のお歌「みすゝかるしなのゝくにの神山にともらつとひて世をいのらなむ」がかけられておりました。
まさにこのお歌の歌碑を今回の祭典にて再建させて頂くのです。その御用をさせて頂いていますが三代様が御守護下さっていることを教えて下さったのだなと思いました。
また綾部に着いて最初にお会いした方が、まさに我々が会いたいと念じていた方でした。翌日月次祭で長生殿に入るとまたばったりある方にお会いしました。その方も我々に会うことを待っていました。
そういえば前日の亀岡に着いた時に最初にあった方もそうでした。今回は「偶然はなく一切は必然であり神意である」を何度も体験させて頂きました。
私の名前は、山本健司でした。 大本信者の故青木様が「司は死につながるから、運気の強い、けん にした方がよい」とのアドバイスを頂きました。早速三代様にお願いしましたところ、「山本 健」と名前を頂きました。しかし、読み仮名は「たけし」のままで良よいとのことでした。
すぐに会社に改名届を出し、変更いたしました。会社では、山本の姓が多く、又健がケンと読みやすいため「やまけん」ニックネームにしています。そして十数年が経ちました。戸籍も十年以上経つと変えることが出来ると聞いていましたが、十年過ぎても特に急ぎもせず、そのままになっていました。
平成十二年の十二月に三代様に名前を頂いていたのに、戸籍を変えていないのはいけないと気付き、急いで改名の手続きを取りました。
裁判所の許可が降り、いよいよ役所に届けて、改名できた翌日にふとした話から現在の仕事につくことが出来ました。そのおかげで、今まで十年以上もやりたいと願っていた仕事を自ら実践することが出来、会社の上司も強力にバックアップしてくださり、市場のニーズにもマッチして現在順調に進めることが出来ています。
教主様から名前を頂く事でこんなにお陰を頂けるのかと大変な驚きとともにありがたさでいっぱいです。
私は昭和四十四年九月より現在の西宮に住居を定めました。バスを利用して、阪神電車西宮駅まで出かけます。その途中バスに乗りましたら偶然にも妹が乗っており驚きました。久しくあっておりませんでしたので帰りに立ち寄ってくれる約束をして居りましたので午後訪れてくれました。色々と話す中で大本の話を聞かされました。
私も主人が外国航路の一員として勤務いたして居りましたので留守中の無事を祈る心が常にありましたので考えました。
当時、松香分苑の松本松子先生にも紹介されまして温かい指導をいただき近づいて来る節分大祭に行く事を勧められ節分大祭に連れて行って頂きました。
初めて見る色々の徹夜の行事に感動いたしました。くじ引きを引く所もあり、妹達にくじを引く様に進められて私も引きました。暫くして、私の名前が呼ばれ一等賞と言われて驚きました。でも、何か幸先のよさを感じまして入信させて頂きたく松本先生にお願い致しました。
入信以来外国航路に居る主人の祈願も出来て、留守中の私の心の拠り所が出来有難く感謝いたしております。
以来、神様にお願いをして救って頂いた事は、数多く有り、有難く体験させて頂きました。
昭和六十三年、私の友人からカナダに行って良かったと聞き、行きたいと思っていました。でも、私の体調は行けるような状態ではありません。ぜんそくあり、不整脈ありで何をするにも息苦しく歩くこともあまり出来ない状態だったのです。
主人も旅行好きで一緒に行ってくれるのですが、私の状態では主人も、行かせてくれないと思いますと、尚、行きたいと思うばかりでした。
私は大神様にお願いするより道はなく、それから二十日後に出発のツアーに依頼していました。
その反面、私がお願いして聞いて下さるだろうかとの不安もあり真剣でした。でも出発の日が来て最後の御挨拶を神様に祈願して家を出ました。大阪空港までは車ですがツアーの皆様と共に、行動が出来る事を祈り機上の人となりました。
ここまで来たと云う喜びと不安な気持ちで落ち着きませんでした。その時、トイレに行きたくなり、水のような下痢の凄さに驚きました。でも体は軽く、体調もよく健康でした。間もなく緊張しながら一行に続いて空港に降りました。
ツアーの一行の中に新婚さんご夫婦が居られ、私がよくトイレに行きますので列より遅れがちになりますのでよく導いて下さいました。ホテルに入るにもモタモタしているとスーッと来てドアを開けて下さいました。そのご親切は今に忘れることは出来ません。
帰りはニューヨークのl五十三番街を歩いて見物をし、ワシントンに向かいました。ワシントンより大阪空港に帰るのですがツアーより離れて一行の姿が見えず、空港の広くて大空港なのでどうしようと、ウロウロするばかりでした。そうしたら新婚さんのご主人がこちらですよと呼んで下さってどんなに嬉しかったか感謝するばかりでした。無事大阪空港に帰ってきました。
カナダなど行けないと思っておりましたので、大神様の御神徳を頂いた事、身を持って悟らせて頂きました。只、祈るばかりです。高齢者になりました今は、毎日大神様に感謝と日常の無難を念じつつ幸せに過ごさせて頂いております。ありがとう御座いました。
昭和三十年ごろ、以前に入った第一生命保険会社より医師同伴契約改新が目的か塚口の家に参られ、私の健康状態の検査を強制的に行い、その結果全ての点で不合格、再契約は勿論、一生涯生命保険には契約が出来ないようになっていました。日本生命が申すには貴方は第一生命会社よりドクターストップの申告通知が廻って居りますので、どこ共契約は出来ませんと断られる始末でした。
昭和三十年ごろには六十歳までは持たない身体と、医師にも見離され生命保険にも入れなかったのに、八十四歳の現在も健康で支部の月次祭にも祭官を務めさせていただき喜びで一杯です。これは御祈願の御蔭と大神様の御神徳のお陰と毎日感謝で明け暮れて居ります。
きっかけは未信徒として受講した大道場修業だと思います。それまでに伏線があります。
二十代半ばころでしたか、妻の実家の向かいに、山本夫妻(現分苑長)が引っ越してきました。
なにやら健康食品をしていて神主さんみたいと言うとらえ方でした。自然に実家の者は近所付き合いをしているようでしたが、私には直接関係は有りませんでした。
それでも妻が鼻炎の相談に行ったり、節分の人型お払いも勧められるまま受けたりしていました。山本様が貸してくれた発刊したばかりの「神仙の人 出口日出磨」を、義父は「こんな偉い人いるんだぞ。お前も読んでみろ」と妻に手渡しました。 又貸しで我が家の本棚に長いこと眠っていました。
私は読む本が無い時、仕方なしに手にしました。驚きました。何度も頭を張られる思いでした。厚い本ですが、涙ながらに一気に読みました。続けて日出磨先生の生きがいシリーズも読みました。しかし普通ならこのまま何らかの形で大本を知ろうとするのでしょうが、時節ではなかったのでしょう、初修行まで四年ほどかかりました。
実家の前から引っ越した山本さんの奥さんの店に無添加の健康食品を買いについて行くのですが、その後オウム教の事件もあり、どうも神様とか信仰とかの話になるのが嫌で足を遠のくばかりでした。
ある日山本さんご主人が「いい車乗ってますね。どう京都までドライブするつもりで修行に行ったら?」となんだか今思い出せてもあっけない言葉で人生の大転換期の幕が開いたのでした。
修行中、妻の気分が悪くなり、島根の梶ヶ谷清さんにみ手代お取次ぎをしてもらいました。
理屈が勝っていた私はそれでもまだ半信半疑でした。
高熊山で鎮魂をしているとき、急に体全体を包み込むようなエネルギーと紫の閃光を浴びました。正座した上半身が平状したまま上がりませんでした。午後のお日様の下、なんのトリックも出来得ない中でのことに、さすがの頑固な私も降参しました。神様や霊魂の実在を、それまでも否定はしていませんでしたが、自分の人生に無縁のことと思っていました。その時「大本は素晴らしいところだと感じました。でも自分達の様に穢れて劣っている者は入信させてもらえないね、又いつか来られたら良いね。」と思って帰宅しました。修行から帰ってからというもの日常生活に支障をきたすほどに霊現象が続きました。
今思うとそれも神様からの試練だったのでしょうが、霊に尋ねていけばこれから先大丈夫だなどという邪まな感情も正直ありましたどうにも操縦ができなくなり、山本さん宅を訪ねました。玄関を入ってご神前から二間はなれた応接間に通されましたが、強い神光に座っていることが出来ず、ひれ伏していました。
そしてご相談の上入信させて頂くことになりました。本当にいいのだろうかという謙虚な気持ちは今も変わりません。いまも尺度の基準は神様が好きかどうかだと思っています。
封印された話で発表することではなかったのですが、このたび分苑から神徳談集の第二巻が発刊されるについて入信の動機というテーマでの寄稿を募られましたので、これも時期かなと、一度も忘れることはありませんが、鮮明に当時を振り返ってみました。
大本の神様の教えを知ろうとするならば、お筆先の解説書とも云うべき霊界物語をどうしても必要とします。『このを読み批判や、研究をする態度はすでに身魂は根の国底の国に通うものと知れ』と聖師様のお示しがあり、また霊魂の向上の程度によりそれぞれが頂けるとあります。
この宇宙、現幽神全てを御創造なさった大国常立尊は三千世界を救済のために瑞の御霊にこの霊界物語を救いの鍵として私達におくだし下さった偉大なる神書大神様の御作品であり、如何に考えようとも人間の知識や学力では解す筈も無く、わからなくて当たり前であり、私がこれをするは慢心取り違いに走る事を心に言い聞かせながら物語やお筆先の拝読を毎日励ませて頂いております。素直な気持ちで一生懸命声をだして拝読させて頂いている内に時として現在困っている答えを的確に教えてくださる事が度々あります。
まず拍手をして「艮の金神様、瑞の御霊の大神様ただ今より拝読させて頂きます事をお許しとご守護をお願い致します
聞きに来て居る諸々の霊魂にも大神様の御心のままにお祓いと御神徳下さいませ」又拝読終わりますと「ただ今は結構な御神徳を賜りありがとう御座いました。」と拍手で終わります。
拝読や浄書の時間は多用の中でもできるだけ同時間にさせて頂く様努力をしています。
昔いただいたおかげ話を紹介させていただきます。子どもが乳児期に子供達のおやつ代のためと紳士服の内職をしておりました。
針があぶないので子どもの昼寝の間とか、夜分子どもの寝た後に内職をしていましたが、その時は急の仕事が入り、止むに止まれずに仕事に熱中して居りますと、子どもがハイハイをして来たかと思うと、あっという間に縫い針を口に入れてしまいました。
びっくりしましたが昨日拝読した中に、針を飲んだ時に助かるマジナイが書いてあり、それを思い出して早速に御神前でお願いをして実行し一日程待ちましたら、ウンチの中より縫い針が二本出て参りました。
どれだけ心配を致しましたか知れません。その後物語の拝読の場所を一生懸命捜しましたが、何処にも書いてありませんでした。
大手術をして針を取り出す処を大神様に助けていただきました。
又、長男の将来を定めねばならない時期の事でした。その頃、親の言うことは一切聞かず、毎日大神様にどうか行く末間違いのないように、正しく方向をお導きくださいませと、祈り続けており、本人の希望のまま進ませてやる事に致しました。
私としては松下電器を受けさせてやりたく思っていました。ある朝、物語拝読をいつもの様にさせて頂いておりますと誰も居ないのに松下電器、松下電器と二言声が聞こえ不思議なことだなあと思って居りましたら、長男から電話がかかり、「母さん今ひとつだけ願書を提出せなならんが僕の学校の推薦はトヨタだけど先生がお母さんの希望もあるから補欠ならかまわん、その代わりすべるのは覚悟の上でならと言っていられるが、どちらを提出したらよい」との声で私はかかさず松下電器に、と勧めました。
その後受験者全員駄目で補欠の息子が満点に近い成績で入社を定めました。担任は、二、三年本校から一人も入社出来てないのに不思議だと云われました。このように霊界物語の拝読に依って私は度々する様な御神徳を頂いております。皆様方の中にも私どもの様な御神徳を頂いておられる方は多々御座いましょうが、ここに二つの例を挙げさせて頂きました。
「天国へのチケット」の話は、松香分苑の原点である、初代分苑長松本松子が幼少時代に頂いたお蔭話であり、
又神様の存在を確信し、「神様の御用第一にして、正しい願い事なら、必ず神はこの世にあり、お聞き届け下さいます。」
ことを体験できた話でございます。特に、産土の大神様から次のような言葉を賜りました。
『私は産土の神である。汝の前世の罪は大きくて一生盲目で過ごさねばならん所を国祖大神様が綾の聖地にご降臨されて世人を救世されている。国祖大神様の大愛により、目を開けて頂けた』
この二年後に、国祖の大神様が、綾部の大本にまつられていることを知り、すぐに御礼の為に参拝し、修行を受け入信されました。今の松香分苑の原点となった、ご神徳談でございます。
この話を通じて、大神様の存在とその大愛とお力を知っていただければ幸いでございます。