大本松香分苑

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更新情報

---What’s New---
2025/2/28
new ご神徳談集第82話をupしました。
2025/2/14
ご神徳談集第81話と2月度月次祭写真、松香通信をupしました。
2025/1/31
ご神徳談集第80話をupしました。
2025/1/17
ご神徳談集第79話と新年祭写真、松香通信をupしました。
2025/1/3
ご神徳談集第78話と元旦祭写真をupしました。
2024/12/20
ご神徳談集第77話をupしました。
2024/12/10
12月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2024/12/8
ご神徳談集第76話をupしました。
2024/11/24
ご神徳談集第75話をupしました。
2024/11/15
11月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2024/11/8
ご神徳談集第74話をupしました。
2024/10/25
ご神徳談集第73話をupしました。
2024/10/20
10月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2024/10/11
new ご神徳談集第72話をupしました。
2024/9/27
ご神徳談集第71話をupしました。
2024/9/13
9月度月次祭の写真と松香通信、ご神徳談集第70話をupしました。
2024/8/31
ご神徳談集第69話をupしました。
2024/8/16
ご神徳談集第68話をupしました。
2024/8/13
8月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2024/8/2
ご神徳談集第67話をupしました。
2024/7/19
ご神徳談集第66話をupしました。
2024/7/15
7月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2024/7/5
ご神徳談集第65話をupしました。
2024/6/21
ご神徳談集第64話をupしました。
2024/6/14
6月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2024/6/7
ご神徳談集第63話をupしました。
2024/5/24
5月度月次祭の写真と松香通信、ご神徳談集第62話をupしました。
2024/5/10
ご神徳談集第61話をupしました。
2024/4/26
ご神徳談集第60話をupしました。
2024/4/19
春季大祭の写真と松香通信をupしました。
2024/4/12
ご神徳談集第59話をupしました。
2024/3/29
ご神徳談集第58話をupしました。
2024/3/12
3月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2024/3/8
ご神徳談集第57話をupしました。
2024/2/16
2月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2024/2/23
ご神徳談集第56話をupしました。
2024/2/16
2月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2024/2/9
ご神徳談集第55話をupしました。
2024/2/2
健康講座第三回の動画をupしました。
2024/1/26
ご神徳談集第54話をupしました。
2024/1/19
元旦祭、新年祭の写真と松香通信、令和6年度年間計画表をupしました。
2024/1/12
ご神徳談集第53話をupしました。
2023/12/29
ご神徳談集第52話をupしました。
2023/12/15
12月度月次祭の写真と松香通信、ご神徳談集第51話をupしました。
2023/12/01
ご神徳談集第50話をupしました。
2023/11/17
11月度月次祭の写真と松香通信、ご神徳談集第49話をupしました。
2023/11/03
ご神徳談集第48話をupしました。
2023/10/20
秋季大祭の写真と松香通信、ご神徳談集第47話をupしました。
2023/10/06
ご神徳談集第46話をupしました。
2023/09/22
ご神徳談集第45話をupしました。
2023/09/15
9月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2023/09/08
ご神徳談集第44話、月次祭祝詞改訂版(信徒ページ)をupしました。
2023/08/25
ご神徳談集第43話をupしました。
2023/08/19
8月度月次祭の写真と松香通信をupしました。
2023/08/11
ご神徳談集第42話をupしました。
2023/07/28
ご神徳談集第41話をupしました。
2023/07/14
7月度月次祭の写真と松香通信、ご神徳談集第40話をupしました。
2023/06/30
ご神徳談集第39話をupしました。
2023/06/23
健康講座第二回をupしました。
2023/06/16
6月度月次祭、山本相談役二年祭の写真と松香通信、ご神徳談集第38話をupしました。
2023/06/02
ご神徳談集第37話をupしました。
2023/05/19
5月度月次祭の写真と松香通信、ご神徳談集第36話をupしました。
2023/05/10
4月5日開催の健康講座の動画をupしました。当日視聴されなかった方は是非ご覧になってください。
2023/05/05
ご神徳談集 第35話 「他宗教を辞めると命がないと言われて」 神戸市 TA様を掲載しました。
更新情報をページの最初に配置しました。
2023/04/21
ご神徳談集 第34話 「神様の御蔭で子宮癌を克服した私」名古屋市 MM様を掲載しました。
松香通信4月号、春季大祭の写真を掲載しました。
2023/04/7
2023/03/24
NEWご神徳談集 第32話 「熱湯のはずが冷水に・・・」(神様が頭にかかる瞬間水にして頂く)徳島市 IF様を掲載しました。
2023/03/17
松香通信3月号、月次祭の写真、松の苗の植樹の写真、令和4年決算書を掲載しました。
2023/03/10
ご神徳談集 第31話 「ご神水を両目につけて視力回復したわが子」豊能郡 IH様を掲載しました。
2023/02/24
ご神徳談集 第30話 「原因不明のゼンゾク」(喉にうろこ状の痕が…お取次・お清めでみるみる良くなる)豊能郡 IH様を掲載しました。
2023/02/17
松香通信2月号、月次祭の写真、松香分苑ホームページの案内チラシを掲載しました。
2023/02/10
ご神徳談集 第29話「一億円のご神徳」西宮市 TI様を掲載しました。
2023/01/27
ご神徳談集 第28話「無事帰ってきた娘(一才八か月)四キロ先の山中で発見‼」豊橋市 KF様を掲載しました。
2023/01/13
ご神徳談集 第27話 「長生殿参拝で歩けるようになった」名古屋市 OT様を掲載しました。
松香通信1月号、新年祭の写真を掲載しました。
2022/12/30
ご神徳談集 第26話 「度々のお取次で忘れる様に病気が治っていた」  神戸市 IK様を掲載しました。
2022/12/16
ご神徳談集 第25話 「大難を小難に 小難を無難にして下さる神様」  西宮市 TT様を掲載しました。
松香通信12月号、12月度月次祭の写真を掲載しました。
2022/12/2
ご神徳談集 第24話 「死を覚悟して」  山本 文子 を掲載しました。
2022/11/25
ご神徳談集 第23話 「言霊武道『和良久』で体力回復」  山本 文子 を掲載しました。
2022/11/18
ご神徳談集 第22話 「煎じ松の効果はすばらしい」  山本 文子 を掲載しました。
松香通信11月号、11月度月次祭の写真を掲載しました。
2022/11/11
ご神徳談集 第21話 「印象の深いお取次」  山本 文子 を掲載しました。
2022/11/4
ご神徳談集 第20話 「一番感心する人のお取次ぎ」  山本 文子 を掲載しました。
2022/10/29
ご神徳談集 第19話 「病気平癒祈願祝詞はすごい」  山本 文子 を掲載しました。
2022/10/21
ご神徳談集 第18話 「お茶人」  山本 文子 を掲載しました。
リンクのページに株式会社ルーモを掲載しました
2022/10/14
ご神徳談集 第17話 「心肺停止で霊体験」  山本 文子 を掲載しました。
松香通信10月号、秋季大祭の写真を掲載しました
2022/10/4
ご神徳談集 第16話 「教主様のお写真より 金色の神様が現れる」  山本 文子 を掲載しました。
2022/09/30
ご神徳談集 第15話 「霊界からのメッセージ」  山本 文子 を掲載しました。
2022/09/23
ご神徳談集 第14話 「人の思いは恐ろしい」  松本 松子 を掲載しました。
2022/09/16
ご神徳談集 第13話 「御神水で蛙の子が苗代に入るのを防ぐ」  松本 松子 を掲載しました。
松香通信9月号と月次祭写真を掲載しました。
2022/09/9
ご神徳談集 第12話 「ハンセン病者がお松とお土で完治した」  松本 松子 を掲載しました。
2022/09/2
ご神徳談集 第11話 「御神水で胃ケイレン治る」  松本 松子 を掲載しました。
2022/08/26
ご神徳談集 第10話 「先祖が復祭をして救われた」 松本 松子 を掲載しました。
2022/08/19
ご神徳談集 第9話 「まさかの時は親子でも仕方がない!」 松本 松子を掲載しました。
2022/08/12
ご神徳談集 第8話 「大神人・出口王仁三郎聖師様の御葬儀に 参列の奇跡」 松本 松子を掲載しました。
2022/08/5
ご神徳談集 第7話 松本松子の幼少~15才まで ⑮を掲載しました。
全国一斉平和祈願祝詞、および新型コロナウィルス早期終息祈願祝詞を信徒専用ページに掲載しました。
2022/07/29
ご神徳談集 第6話 松本松子の幼少~15才まで ⑬、⑭を掲載しました。
2022/07/22
ご神徳談集 第5話 松本松子の幼少~15才まで ➉、⑪、⑫を掲載しました。
2022/07/15
松香通信7月号、月次祭の写真を掲載しました
ご神徳談集 第4話 松本松子の幼少~15才まで ➆、➇、➈を掲載しました。
2022/07/08
ご神徳談集 第3話 松本松子の幼少~15才まで ➃、➄、➅を掲載しました。
2022/07/01
ご神徳談集 第2話 松本松子の幼少~15才まで ➀、➁、➂を掲載しました。
2022/06/28
ご神徳談集 第1話「母の思い出」を掲載しました。
2022/06/12
松香分苑6月度月次祭・山本文子相談役一年祭を斎行しました。祭典の写真と松香通信を掲載しました。
2022/05/08
松香分苑5月度月次祭を斎行しました。
2022/05/01
松香分苑ホームページ開設しました。

松香分苑について

松香分苑は130年の歴史を持つ宗教法人・大本の地方機関の一つで愛知県豊橋市に拠点があります。

祭典
春季・秋季大祭 四月・十月第二日曜日
月次祭     毎月第二日曜日  

 

沿革

 松香分苑は、徳島県鳴門にある十二神社の神主の家に生まれた松本松子(旧姓宮崎マツ)が、昭和42年3月3日に、「松香支部」と三代教主出口直日様に御命名賜り発足した大本の一機関です。地域ではなく、松本松子がお導きした信徒を中心として設立された大本では稀な機関であり、信徒は関東から関西まで広範囲にわたっています。

 当分苑は、初代分苑長をはじめ、松子の長女山本文子が二代目を引き継ぎ、「大神様の存在を一人でも多くの方に知っていただくことで、皆に幸せになって頂きたい」と、アニメビデオ「竜神に乗った少年」や「天国へのチケット」、そして信徒が大神様から頂いた「ご神徳談」を編集発行する等、時代に即した宣教活動にいち早く取り組み、大きな功績を残しました。また、御神書拝読による自分自信の魂の向上を図りつつ、病気祈願をはじめとする、お世話活動を徹底して実践してきました。「信徒は皆家族」とした信仰の姿が、創設者から引き継がれた松香の文化です。詳細は「松香の歴史」をご覧ください。

十二神社前    松本先生

各種祭典・式典・ご祈願お受けいたします。日本古来の神道様式で厳粛に斎行させて頂きます。

地鎮祭・上棟祭・各種慰霊祭・結婚式・葬祭・交通安全祈願
病気平癒祈願・合格祈願・厄除け祓い・身の上相談 

アクセス
〒440-0014 愛知県豊橋市南牛川 2-3-20   Tel/Fax 0532-63-2173

お知らせ(祭典・行事の予定)

■ 次回のご神徳談集 第83話は3月14日(金)にUPします。

■ 3月9日に三月度月次祭を斎行します。ご参拝の方は事前にご連絡下さい。

■ 松香分苑ホームページを紹介するチラシを作りました。プリントして宣教にご活用ください。

画像をクリックすると拡大表示されます。

PDFはこちらからダウンロード




■ 2022年11月13日に日本体育大学教授の具志堅幸司先生の講演会が桜丘学園 中高等学校(豊橋市牛川)で開催されました。
 桜が丘学園の生徒さん、学校関係者、分苑関係者合わせて150名もの方々に来場頂きました。心よりお礼申しあげます。
 当日の講演の映像を公開しました。下記の映像をクリックするとyoutubeの松香分苑channelで視聴できます。
 「高い志をもって本気で努力を重ねれば夢は実現できる!」という実体験に基づいたお話です。是非ご視聴下さい。
 下記の案内チラシは画像をクリックすると拡大表示できます。

ご神徳談集から (はじめにと第一話は常時掲載。バックナンバーは資料・リンクのページにあります。)

ご神徳談集  ご神徳談集について 
松香分苑の信徒が頂いたさまざまのご神徳談を、二代目松香分苑長の山本文子が、 二話のアニメビデオと3冊の小冊子にまとめ編集しました。 この中から、順次皆様に紹介してまいりますので、ご参考になれば幸いでございま す。 最初に、松香分苑の原点である初代分苑長の宣伝使・松本松子氏と、そのあとを継いだ娘、宣伝使山本文子氏のお蔭話から順次ご紹介してまいります。
内容は
1, 母の思い出:お蔭は、徹底した信仰生活から頂ける
2, 初代分苑長、松本松子宣伝使のお蔭話シリーズ
3, 二代分苑長、山本文子宣伝使のお蔭話シリーズ 
4, 信徒の方々のお蔭話シリーズ
   なお、順序は都合により変わることもございます。ご了承ください。 ▶をクリックすると表示されます
はじめに  

「大本」は明治二十五年に京都府綾部市に開教し、今年百二年を迎えました。 私の母であります、松本松子は平成四年で「大本」信仰一筋五十年となり、その間数々の奇跡的な御神徳を頂き、多くの方々をお導きさせて頂きました。  
 母松本松子は、生後間もなく三男の兄に胸の上に飛び降りられ、当時、脳膜炎と言われ、これが原因で失明。  将来のことを思い悩み自殺をしようとする寸前に「祈り」により神の光を受け目が見えるようになる。これより母は、神様より命を頂いたので、人様の手助けを自分の一生の使命と考え、多くの方々に神様の存在を話して活動する。この間、結婚後、間もなく過労の為に結核にかかる。更に長男出産後、高熱の為に右乳を七回切除。  
 四十才代に入り子宮癌になるなど、何度も死に目に合いながら、その度、大きな御神徳を頂き「入り豆に花が咲く」のたとえ通り今年元気に七十九才を迎える事が出来ました。  この度、大本松香分苑が神戸市より愛知県豊川市へと大移動し、大本松香分苑長も松本松子より私の引継ぎさせて頂きましたのを一つの区切りとして、松本松子が数々頂きました御神徳談の一部と、信者様の体験談の一部をご紹介させて頂きます。  
 この本を読まれて、一人でも多くの方が「大本」のすばらしさを知って頂きお陰を頂いて下されば、幸いに存じます。

 
第1話 母の思い出 山本 文子  

私の母松本松子は、平成八年1月三十日に八十一歳で宣伝使の生涯を終えました。私は兄が一人おりました。私が生まれる前の日まで宣教活動をしており、三代教主様からお葉書で、男子の場合と女子の場合の両方の名前を頂きました。その日のうちに礼状をポストへ出しに行きその帰途に陣痛が来て、翌朝私が生まれました。

 

私は学校へ入学するまで母の背で宣伝歌の子守歌で育ち、その頃は大本でも子連れ宣伝使として有名だったそうです。とにかく母は霊界物語に出てくる宣伝使の様で一日睡眠時間三~四時間、一日多い時は六十人のお取次ぎと身の上相談を受けていたとの事でした。私は母が各地宣教に行く度に信徒さまのお家に預けられ、各家をまわっておりました。私が学校へ通うようになると、本格的に母の宣教活動が始まり、二年に一日だけボロボロになった着物(昔は銘仙と言って布地が弱かった)とすり減った下駄を履き替えに帰って、翌日、または長くいて二~三日で出かけていきました。 私は小学校入学式も隣の家の小母さんに連れて行ってもらいました。  その頃は戦後でしたので、一家は大本信徒さまの特任宣伝使をされている人のお誘いで徳島の山奥に疎開しておりましたが、その人に、神様のお道が開けるから、支部の為の家をたてなさいと言われ、父はその通り建てましたら、完成した直後に、その人から神様の命令でと言われて家をとられてしまい、この嫌な思いをしてからというもの大本信仰に猛反対するようになり、母が宣教活動できない様に、帰ってきても下駄を隠したり、お金を隠して出かけられないようにしたりしておりました。しかし母の意志は強固で、山から材木を満載したトラックの材木の上に、無料で載せてもらい、四時間も、振り落とされないように材木にしがみついて徳島市内の信徒様のお家へ行くこともありました。

 

私の友人は、私の家が父子家庭だとずっと思っていたようです。子どもや家庭の事はすべて神様が良いようにしてくれるから私は人助け第一でと、それを貫き通した人生でした。そんな母に私も反発した頃があり、幼少の頃から朝夕拝は欠かしたことはなかったのですが、それは朝起きて顔を洗うといった生活習慣でしかなく、家庭を顧みない母に不満もあり、いつしか心は大本の神様から離れ、キリストの日曜学校に通ったり、仏教のお話を聞きに行ったりしていた時もありました。その頃、父が末期の肝臓癌となり、重体で入院させてもらえず病院から帰された時、兄と二人で随分悩みました。母はと申しますと、「信徒様で癌の方を三人も引き受けて御祈願、指導しているので今は家には帰れない、主人が病気と知らせたら皆さんに心配かけるので何も知らせず、亡くなったら『すぐ帰れ』とだけ電報を打ちさない」と。私はそこまで強い信念を持っている母の信仰態度に「待てよ、私も一度真剣に祈る価値のある神様かも?」と気付き、二十一日間私なりに望み事をお願いしてみました。するとぴったり二十一日目に希望が叶い、もう一度違った、自分としては不可能に近い望みを二十一日間頼んでみました。それも二十一日目に叶ったのです。  しかし、一~二度は偶然かもしれないと考え、三度目は父の病気をお願いしました。名医と言われていた小松島の信徒様の加藤病院長様も往診に来て下さり、よくもって一週間と言われ、その時、手足は細り顔は土気色で腹水でお腹は異様に大きく腫れ、尿毒症も起こしており、どのお医者様にもさじ投げ状態でした。

 

私は  本当の神様ならば助けてくれるに違いない、(母が家庭も顧みず、宣教活動のみしている)と祈願をしました。すると、祈願二十一日目に母が突然帰宅し、母は「いつも元気いっぱいの自分が、主人のことを思い泣きながら綾部の本宮山で祈っている姿をみて、不思議に思った古い信徒様が、事情を尋ねてくださり、その方が、自分が万が一の時に飲もうと肌身離さず持っていた、たった一つの開祖様のおひねり様をあげますと、おひねり様をくださり、その足ですぐ帰ってきたので、すぐ父さんに飲ませるように」と言い、すぐご神水で飲ませました。すごく大きい紙のおひねり様でした。飲んで半日くらいたった頃、突然父のお腹がすごい音がして汚物が排泄され、四十二度以上の高熱がその日からピタリと止まり、食欲が出てきました。主治医や近所の人の驚きもさることながら、私は、このことで、大神様の存在を信じることになり、それからは自分自身のお祈りの仕方や態度が一変しました。その当時父は五十歳でした。母は一言も私に「祈れ」とも何も言いませんでしたが、時々祝詞奏上が嫌になった時は、そういう時こそ這ってでもご神前に行き祝詞を奏上しなさいと注意されました。

 

母の晩年に、朔日参拝しておりました頃、梅松館の受付の若い男の方が母を見て、「宣伝使松本松子先生と、三代様が良くおっしゃられるので、どんな人かと思っていたら,何だ、こんなお婆さんか」といわれ、私は驚いて、「何でですか」と聞き返しましたら、「この大本のなかでも三代様が宣伝使○○先生とおっしゃられる人はこの松本さんしかいないので、もっとすごい人と思っていたので」と言われました。確かに母は、三代教主様のお言葉通り、生涯宣伝使だった思います。私が長女出産の時も、神戸にいた母は、信徒様の仲人に行き、主人の姉が病院に手伝いに来て下さいました。母として、妻としての母はとても家庭的な人であり、いつも家族の事を思っていました。ですから格別、家庭の事が出来ないことが辛く、修行であったと思います。しかし、母は「神様に失明している目が開けてもらえば一生神様のことを人々にお伝えします」という願をかけ、それを実践した人でありました。母は六十五歳の時に、頼りにしていた兄(三十五歳)が昇天したときも、一度も神様に不平を言わなかった人で、信仰の道の師匠として、尊敬できる人でした。私は、祈って神様に通じないものはないという不動の信を母の背を見て教えてもらった気がします。私もご祈願と身の上相談で家のことが不十分になることもありますが、主人は信仰熱心でありますし、子どもたちもよく手伝ってくれるのでなんとかやれております。  母は信仰一筋五十年の褒章の時に、尊師様の「原」というご染筆を頂きました。確かに母は、荒地に種を蒔き、原野を耕していった苦労の一生でありました。そして、この松香分苑の原点となってくれた人でもあります。母の意思を継ぎ、私も宣伝使として宣教活動にひたすら励んでおり、全国お導き功労者褒章を頂きました。これからも母の生きてきた道に恥じないよう、精進努力を忘れず、ご神業に邁進していきたく思います。  
最後に母が好きだったお歌を紹介します。  
 「聖師様お歌」  
   ここだくのなやみ憂いもみこころぞ  
       やがては開く花の春来ん

第2話~第14話(初代分苑長 松本 松子のご神徳談)は資料・リンクのページをご覧ください

第15話 「霊界からのメッセージ」 山本文子

 「霊界からのメッセージ」
《兄の死》
私の兄が病死した時の事です。危篤になりある病院の集中治療室に入院して意識のないまま三日目を迎えました。心臓が悪くて倒れたのですが心臓だけは頑張って動いていました。倒れた兄自身も努力すれば助かると思っていたのでしょう。お医者様も「よく頑張っていますよ」とのお言葉を頂いていましたが、もう三日目になると、他の胃とか肝臓からすでに出血が始まっていると告知された時、母は覚悟して集中治療室の兄に面会し、兄のベットの所に行き、心で兄に「今度の発作は大きいのでもう助からない、あきらめて霊界へ行きなさい」と念じたと同時に鼻から血をたらりと出すと同時に心臓波を停止しました。病院より遺体で帰った兄に、私が、「お帰りなさい」と声を掛けたら鼻血がスーと出て知らせてくれました。私にとってはたった一人の兄でしたから霊界のある事は、大本のご神書である霊界物語(全巻八十三冊)で良く知っていても寂しくて心に大きな穴があき、落ち込んでいました。すると死んだ筈の兄が毎晩五十日間(神道は五十日祭・仏教は四十九日)私の夢に出てきて、死んだ日からの状態を教えてくれました。 
《死後の五十日間》 本葬の時は私どもに混じって兄が一番よく会葬者に頭を下げていました。亦、十日祭の頃になると一度赤ん坊になって三才位に成長していました。霊と言って霊魂を祭ってある前で兄嫁の母が毎日霊界物語を音読(声を出して読むこと)してくれたお陰で恩頼(みたのふゆ)をいただいて早く霊魂が成長したとのことでした。五十日間は交替で音読し続けました。特に霊界物語の天祥地瑞の巻になって兄の霊魂の成長には目覚ましいものがあり、五十日目には三十才の美しい顔になり、何の苦しみもなくなっていました。
死んで五十日間はいつも家にいた通りの事を兄は普段と変わりなくしてましたし、私共が思い出して悲しむと兄の心は灰色のようになり世界が一面大型スクリーンの世界に入った様に悲しみの心になっていました。ビックリして生きている人間は死者を知らない内に苦しめたり悲しくしていることに気付かされました。それ以後できるだけ楽しいことを思い明るく努めました。
《三途の川》
 いよいよ五十日の前日になり、いつものように夢の中で私に、「明日いよいよこの川を渡って向こう側へ行かねばならぬ、上流を渡るか中流か下流にすべきか、どこを渡った方がいいと思うか」と尋ねられました。私は判らないので、美しく済んだ小川に自分の足を浸してみると温水だったのでびっくりしました。丁度十月でしたからもう水は冷たい筈と思っていたので余計驚いたのです。「こんなに気持ちのいい川ならどこでも好きなところを渡れば」と答えました。
 それから四~五日兄が夢に出てこなくなり、不思議なもので毎日会っていた兄に合わなくなると心配になり気にかかっていました。
《霊 国》
 五日目に見知らぬ大きな石作りの御神殿のある立派な家に兄がいました。私に「よく来てくれた」と言ってくれましたが、何だか少し疲れている様子でした。  病死した兄なので、また病気が再発したのかと思って心配すると、兄は「現界と違ってこちら霊界の空気は少し違っていて慣れるまで、高山病のように少し動くと疲れる」 と言いました。
 十畳位の部屋の隅を見るとタンスの前にハンガーの付いたまま、愛用していた洋服が一杯山のように積んでありました。私はもう感心するばかりでした。たしか、遺骸は焼かれて骨まで置いていったのに誠に不思議なことだと思いました。
《霊界の兄へ紋付を送る》
 兄が「あわてて紋付をもってくるのを忘れたので明日届けてくれ」と言われましたので、「はい」と返事して目が覚め、どうしたら届けられるのか実際困りました。母に相談すると、いとも明快にそれはご先祖を祀っているお宮の前に紋付を置いて。想念(心の思い)で送ればよいと申しました。 早速そのようにしましたが届いたのかどうか不安に思っていましたが、翌日名古屋の知人から「紋付を来て兄さんが挨拶にきてくれた夢を見た」と電話があり、届いたことを確信しました。
《死後も同じ父》  また、父が四年前に急死しました時も、父の霊が出てきて「五十日間は三度三度の食事をいつも通り準備して欲しい」と言われ、亡くなった寂しさより忙しい思いをしました。  弔問の来客で忙しい私はお昼になっても父の霊前への供膳の用意ができない時パンをビニール袋ごと供えて父に叱られました。「ビニール袋とかビールの栓のしてあるのは食べられない」と言われ、手がかかるなあという思いがあります。量が少ないとお腹がひもじいと言われたり、夜は晩酌で熱燗にしてくれと言われたりです。
 皆さん、とにかく生きている通りに五十日間はしてあげないと、亡くなった人は満足しないという事です。私は死んだ父の思いがよくわかるので、私は一番親孝行者だと、今も死んだ父に自負しています。

 
第16話 「教主様のお写真より 金色の神様が現れる」 山本文子  

 昭和五十五年の暮れの事です。故重成カネ伯母の体験談です。
 孫が十五才の時、左の脇腹に握りこぶし大の固まりが出来、痛くて苦しんでいました。 折り悪しく暮れで家業の菓子製造の一番忙しい頃であり、病院も休みに入り困っておりました。家内中のものは忙しくて、その子をカネの伯母が見てやっていました。あまり痛い痛いと泣くので伯母は困り、み手代お取次を伯父の故宮崎正に頼もうと連絡しましたが留守だったので、母の松本松子にも連絡しましたが、連絡が取れず、仕方なく伯母はみ手代を持ってなかったが、とっさに『大本祝詞』を半紙に巻いて、その孫をお取次しました。
 伯母は、お取次は初めてで必死で目をつぶったまま神様にお願いをしていたので分からなかったそうですが、お取次を受けいる孫が「おばあちゃんが祝詞をあげていると高松塚古墳の写真のような頭の格好をした金色の小さな女の神様と小さい男の神様が、三代教主様のお写真と日出磨尊師様のお写真から出てきて、男の神様が如意棒のようなもので、僕の左脇腹の固まりをたたくと、乞食の姿をした汚い男が飛び出し、出口王仁三郎聖師様のお写真がかかっている方に、その写真を取り落そうとよじ登って行くのをすごい力でつかまえて、汚い男を軽々とひっかかえて、部屋にある火鉢に放り込み燃やしてしまった。 そして、その灰を箱に入れて女の神様にお渡しすると、再び、お写真に二人共に入ってしまった。  僕はビックリしたので、御神前の方を見ると家の立松がすごーく大きな松林に見えて、神様の社も大変立派に見えた。 目が変なのかな思っていると、おばあちゃんのお取次が終わり、左脇腹の固まりもすっかり消えて治っていました。本当に不思議な出来事だった」と孫は伯母に話したそうです。

 
第17話 「心肺停止で霊体験」 山本文子  

 平成八年二月一日母松本松子の発葬式を終え来客の皆様がほとんど帰られた夕方、弔問名簿を片手にした時、意識が丁度テレビの画面がスート消えてゆくような感覚でなくなりました。主人の声で「文子が倒れた、おかしい、心臓が止まっている、救急車呼んでくれ」まわりの親類の人たちの声も「えっ、今まで元気にしていたのに疲れで気を失っているだけじゃない」主人の声「違う息もしていない」と叫ぶ声が聞こえていました。
 一~二分後消防士の信徒様が私に心臓マッサージをしてくれ、主人は口から酸素を送ってくれるのが分かりましたが、当人の私はなんだか夢うつつの気分で、苦しくもなく心臓停止の感覚もありませんでした。
 間もなく、救急車が来て私をタンカに載せ玄関で急角度に運びだした時、頭がタンカより外に出ていた為、強く玄関のタイル壁にぶつけられました。
 その時、主人の姉が「危ない」と大声で言ってくれました。私も「痛いじゃないの物でないのだから、もっと丁寧に扱ってくれればいいのに…」と心中思ってました。救急車中ではペコペコという心臓マッサージの音が絶えず聞こえ、主人の励ましの声も聞こえましたし、車外に信徒様が立っているのがなぜか分かりました。(普通は心臓停止の状態ですから分からない筈ですが)そして、後日義姉に聞きましたら、声では出さず心で思ったとのことでしたが、当人の私は大声で心の声を聞いていたのです。豊橋市民病院では午後五時半頃で夜間交代の為に医師が多人数いて応急手当が良く、電気ショック二~三回で「心臓が動き出した」との声が聞こえました。
 しかし、脳への負担を少なくするために低体温療法がとられ、注射でまる二日間眠っており(この間、記憶全然なし)身体も氷で冷却されていました。 二月三日節分大祭終了後長生殿へのご祈願により眠りから覚めました。しかし、大きな不整脈が続き、いつ死ぬか分からない状態でいつも主人が横に昼夜通しで側にいて介護し、絶えずお取次ぎをしてくれました。意識が回復しても気管には人口呼吸器が取り付けられていました。痰取り吸引されていました。吸われるために身体がのけぞる位辛く、苦しいものでした。あまりの苦しさに無我夢中で人口呼吸器をはずし、主人が気がついて大騒ぎになり、再び器具をつける施術をしなければという事になりましたが、主人が私の苦しむ姿を見ていて血液中の酸素が一定数値であればつけなくてもいいのでは交渉してくれ、検査結果、再びつけなくてもよくなり、あの苦しみから解放され、やれやれでした。低体温療法の為、風邪を引きましたが、日ごとに身体が回復し次々と症状の軽い部屋へとベッドが廻され運ばれて六日目には集中治療室の四人部屋に移されました。
 左隣には、首を骨折した男性で私に「助けてくれ 助けてくれ」と頼んでばかりで、向かいの二人の女性は意識不明でした。
 私は、主人が、集中治療室の中にいて「みて代お取次」とご祈願、その上お松とお土の煎じたのを毎日持って来てくれ、寒いので毛布を掛けていました。(こんな事は許されないのですが、病院の医師も看護婦の方もすぐ死ぬと思っていた為か好きなようにさせてくれました。)
 そして、八日目にはすごい回復力で管も外してもらい、一人で点滴をもってお手洗いに通えるまでになりました。まわりの入院している人達も、医師も看護婦の方々も一人として声をかけてくれず、異様なものを見るような視線で見つめるばかりです。病院は一分毎に映しているテレビカメラ二台の内一台は、私ばかりずっーと二十四時間映している事を付き添いの方の話しで分かりました。私だけ、祝詞奏上したりお取次ぎをしたりしているので病院側として不思議な所作を監視していたのでしょう。
 入院中四代教主出口聖子様、出口京太郎様はじめ長生殿へのご祈願申込みや、分苑信徒の皆様はじめ家族一同の必死の祈願により心肺停止した私が再び後遺症も無く十日間の集中治療室での入院後、退院をして自宅で百日間静養、その後社会復帰できました。
日出磨尊師様の生きがいの本に「死んでみないと死んだ人の気持ちが分からない~」と、ありますが、本当にそうだと思います。 救急車で運ばれる時に壁に頭をぶつけられたと医師に話しましたら、心臓停止の状態では分からない筈ですし、救急隊員の人達はそんなミスを犯す筈がないと言われましたが気が付くと、私の頭には大きなタンコブがありました。医師も看護婦さんも驚いていました。
 皆さま、お葬式の時に、心で思った事はすべて故人に声になって聞こえる事を知って下さい。心の中で思った事はすべて故人に届いたわたしの実体験をお話しさせて頂きました。
 倒れてより今年で九年目を迎えました。
 市民病院では一ケ月、長くても一年目には死んで病院に来ると断言されましたとおり、退院一ケ月に心臓が苦しくなり再度病院に行きましたが、先生を待っている数時間の間にすっかり元気になり帰ってきました。
 このように死に目に何度もあいましたが大神様の大変なご守護を頂き現在も元気にご神業に励ましていただいております。

 
第18話 「お茶人」 山本文子  

私が三代様にご面会させて頂いたときの事です。
 三代様は「皆、大本の信者さんは水を粗末にし過ぎている。私が皆に代わって神様にお詫びさして頂いている。お水は国祖大神様の血液やでなぁ!」とおっしゃられました。その時、故伊藤よしゑさまに向かい「お茶人さんやなぁ」とお声を掛けられました。
 三代様は茶道の先生がいても決してお茶人さんなどと誉められた事はありませんでしたので、どうしてかなあと思い故伊藤よしゑさまを尋ねました。
 故伊藤様は「私はお茶椀等洗った水は溜めて植木にやっています」と、答えられたのには、教主様は何でもご存知という驚きと、故伊藤様の生活態度の立派さに感心致しました。  
 昔からの故事
 「水を粗末にする人は手足の痛い病気になる」と、いましめられたのを記憶しています。
 私どもも故伊藤よしゑ様にならって日常生活を改めてお水を大切にして行きたく思います

 
第19話 「病気平癒祈願祝詞はすごい」 山本文子  

 退院後、自宅療養をしていた時の事です。分苑の月次祭で病気平癒祈願祝詞を奏上して下さっている時、二階のベッドで寝ておりましたら、御神 前から涼風が吹いてきて身体を通り抜けるように感じました。すると、今まで苦しかった容態が楽になりました。
 後でご祈願をして下さっている人に時間をお聞きしましたら、奏上して下さっている時間と涼風を感じたのと同時刻でした。本当に神さまがお聞 き届けて下さっているのがはっきりと分かり、すごい御神徳をいただく事が分かりました。
 皆さん安易に病気平癒祈願を出されてはいませんか。凄いお陰を頂いているのです。

 
第20話 「一番感心する人のお取次ぎ」 山本文子  

 ある信徒様のことです。この方のお取次ぎをさせて頂きますと、即効で病気が治ったり、気分が良くなられたりで、いつも感心させられます。私はどの方にも同じ様にお取り次ぎをさせて頂いておりますのに、すぐお陰を頂く方と頂けない方がいます。この差はなぜだろうと思い、良くお陰を頂かれるこの方の信仰態度を見てみますと、神様を絶対的に信頼されていますし、神様の事はすべての事において最優先し、月次祭の神饌物も季節ものの一番良い品をお供えされています。神床も二間床で家の中心に作られております。そして、お取次ぎにより私が内流を頂いて注意したことはすぐ実践されています。苦労されているのにとても素直な性格です。
 こういう人がお陰を良く頂かれるタイプだと思います。世の中こんな方ばかりでしたらお取次ぎも楽しいです。 

 
第21話 「印象の深いお取次」 山本文子  

今までの数あるご祈願の中で、印象の深いお取次ぎの一つをご紹介します。
 ある信徒様のご子息の事です。二十七歳の時突然頭が割れそうになり、入院され、精密検査の結果、脳に悪性腫瘍があり、手術成功率は一~二パーセントとのことで、「どうぞ、助けてください」というご祈願の依頼でした。 本人からも電話があり、「今までの人生で何の楽しみもまだ知らないので、これで死にたくない、どうぞ助けてください、もし助かったら何でも言うことを聞きます、お願いします!助けてください!」と長時間にわたる泣きながらの願いでした。それで私はすぐにご祈願をはじめ、毎日必死にご祈願をしました。手術日を迎え、十数時間に及ぶ大手術と言われていました。私は手術時間中、必死にご祈願をさせていただきました。もちろんご両親も、手術室の廊下で祝詞奏上をしていました。手術開始から六時間経過のとき、突然手術室のランプが消えたので、ダメだったとご両親は一瞬覚悟されたそうですが、執刀医が出てこられて、「手術は大成功でした。驚いたことには、昨日の検査の時は腫瘍がドロドロで、手術してもダメだと思っていましたが、今日頭を開いてみると、なんとイボのように腫瘍が固まっていて、そこを切り取っただけで、こんな不思議な手術は初めてでした」と言われたそうで、執刀医のお名前は私と同じ苗字の山本先生という事でした。 ご両親より電話で「ありがたい、うれしい うれしい」と感謝されました。手術の日より、二ケ月も経ったある日のこと、私は神様からの内流で、「この方がまだお礼参りに来ていない」とのことにてびっくりして電話でお聞きしました。すると、「何日も入院で会社を休んだので今は出勤しています」ということでした。退院後、一番先に神様にお礼参りに行ってくださいと固くお約束していましたし、本人たちも、必ず行かせて頂きますという返事でしたから、行かれたたものとばかり思っておりました。私も毎日多数のご祈願のため、この方のことはすっかり念頭になかったのですが、神様からのお知らせにより気付きました。その方に「神様との約束は必ず守って下さい。守らなければ、次のご祈願の時は聞いて下さらないと思いますよ」と強く申しました。その時に、本人は二か月前とは全く違って、「こんな寒い日にお礼参りに行けという神様はひどい神様ですよね」と言われ、私は「行くか行かないかはあなたのご自由です」と答えました。その数日後、何年振りの大雪の日に親子揃って御礼参拝に行かれたとお電話を頂きました。この方が退院されたころは、珍しく小春日和の暖かい日が続いておりました。もっと退院後すぐにお礼参りに行けば、暖かい日に行けたものを、と思いました。
 神様は、約束は必ず守って下さいますが、人間は、心変わりがあるという事を痛感し、私はこのお取次を通じて、人間の心の本質を悟らせて頂い た、印象深いお取次でした。

 
第22話 「煎じ松の効果はすばらしい」 山本文子  

二度目の入院のことです。体力が完全に回復してない頃から、ご祈願とお取次ぎの回数が段々と増え、心肺停止より復帰してからと丁度一年後のある朝、突然呼吸停止になり、隣に寝ていた主人が、私の異変に気付き、すぐ救急車を呼んでくれました。息ができない苦しい中「分苑の神の家を建てるまでは、私は死ねないのや」と心で叫んだ時、息が出きるようになりました。
 意識がもうろうとしていましたが、病院到着の頃、医師の呼びかけに何とか答える事が出来ました。
 一日個室で酸素吸入していましたが、一年前の心肺停止カルテにより、そのまま検査入院となりました。
 重症患者扱いで、あらゆる検査をしましたが、発作原因不明のままでした。しかし、強い心臓の薬は毎日飲んでいました。入院中、主人の届けて下さるお松を煎じたお茶を湯呑一杯でも飲むと尿検査機械での数値データーが、すこぶる良くなることを発見し、薬害がなくなるので毎日嬉しくて飲んでいましたら一週間で退院出来ました。九年たった今日、元気に過ごしております。
 もちろん、毎日煎じ松にスプーン一杯のお土を入れ、松炭も飲んでますが、病院の薬は全然飲んでおりません。    
「聖師様お歌」
  白銀も黄金も玉もかずならず
          身のすこやかに勝るものなき

 
第23話 「言霊武道『和良久』で体力回復」 山本文子  

私は生まれつき、霊を感じる体質です。幼少から母の宣教活動で、信徒様の家々にあずけられていましたが、どこの家に入って も光が射してくるところがご神前で、迷わず玄関からご神前に直行しておりました。しかし、人形をお祀りしている家の、置物の人形の目が動いたり、そこの家にいる霊が見えたりと、霊を感じない人にはわからない辛さがありました。学校へ通っている時も講堂で母親を亡くした友達が隣に座ったとたんに、亡くなった母親が、私に「助けて~」とのりうつった瞬間その場で給食を吐いてしまい、先生にひどく叱られたことがあります。友達は、お腹が痛いとか、頭が痛くなると、私と手をつなげば治ることを知っていたので、友達は多人数いましたが、私自身は健康体なのに、いつももその友達の体の不調を受けて、具合が悪い時が多かったのですが、父が元気印でしたから私が霊を感じて発熱していても、学校を休むことは許されず、毎日毎日辛い日々でした。
 しかし、宣伝使を拝命し、みてしろお取次ぎを始めますと、神様からの内流で、他の人よりも早いスピードでお取次ぎが出来ることが分かりました。お取次ぎをしていると、どんな身体の悪い未信徒様よりも、熱心な信徒様が私のそばに来るだけで、その方の「因縁・めぐり」を神様が救おうとされますので、私は受ける霊の量が多く、苦しんでいる時間が長いという事がわかりました 。分苑以外の方からのお取次依頼も増え、一日八時間くらいのお取次が何年も続き、ついに心臓を悪くし、とうとう心肺停止となり入院しました。退院後、お取次ぎは主人や、分苑信徒宣伝使の方に分担していただいておりましたが、霊を受ける体質はますます強くなり、寝ていても、誰かが私にご祈願をと思われるだけで身体が苦しいのです。もちろんお取次ぎをすれば回復しますが、近年、その受ける量が格段に多くなり、どーっと疲れが残るようになりした。
 ある日、前田比良聖先生のご指導されている、言霊武道『和良久』に出会って早速、分苑に出稽古に来ていただくようになり、初めてから一年十か月になりました。気が付くと、始める前より体力が回復し、お取次ぎをした後の虚脱感が早く治ることに気づきました。
 私が倒れてより、大変ご心配くださった四代教主様がお導きくださったと感謝いたしております。
 どうぞ、お取次で霊を受ける方は、是非、『和良久』をされることをお奨めします。 『和良久』は四代教主様が御命名されました。

 
第24話 「死を覚悟して」 山本文子  

平成二十七年七月八日のことです。日ごろから心臓の調子が悪く。ペースメーカーになってもほとんど機械で信号送りやっと動いている状態が続いておりました。
 しかし「開祖様沓島ごもり世界平和記念百十周年、沓島冠島記念祭典」に名指しで参拝するように四月朔日付で案内を頂きました。今まで参拝できていない人は必ず参拝するようにとのことで、その日から自信はなかったですが、潔斎を始めました。
 いよいよ七月八日に梅松苑に行きましたが、案じた通りその日は一睡もできず、心臓はひどい不整脈で本部で用意されたマイクロバスにも乗れず、主人の自家用車で現地に行きました。道を探しながら行き、集合時間にぎりぎり間に合いましたが、もうこれで生きてこの港に帰って来れないと死を覚悟しました。
 船乗り場までの桟橋が、遠く感じて主人に付き添われてやっと船に乗った時に、海が非常に穏やかで、沓島の方から海風がサーと吹いてきました。途端に心臓が自力で動くようになり楽になりました。これで助けて頂いたと思いました。
 冠島まで思ったより早く着きました。老人島神社まで、大きな石で足元も悪く、距離もあるので、船に残ろうと思っていましたが、お世話係の先生に「ちょっとでも行きましょう」と声をかけて頂き、全く自信がなかったのですが、行けるとこまで行って引き返そうと思っていました。ゆっくり歩いて何とか着くことが出来ました。
 それでもまだ祭典は始まってなく、無事祭典にお参りできました。だんだん元気になってきて、疲れるどころか復路は皆と同じように歩いて船まで行けました。沓島にも無事上陸でき、また宣伝使代表として玉串奉奠もさせて頂きました。
 行きも帰りも海が穏やかで、帰りは行きよりもビックリするくらい元気で帰ることが出来ました。行きは抱えられるようにして歩いて船着き場に行っていましたので、主人が迎えにきてくれた時に大変驚いていました。
 沓島はあきらめていましたが、無事参拝できて、開祖様の御守護を大変身に染みて感じさせて頂きました。
 分苑代表として行けましたので、松香分苑はこれで大丈夫だと思いました。

 

第25話~第67話( 信徒様のご神徳談 第一巻)は資料・リンクのページをご覧ください

第68話 「長生殿の餅撒きのお役で霊界で父がお陰を!」 豊橋市 YT様

長生殿上棟祭での餅まきのお役を地方機関長にさせて頂いた時の事です。そのころ松香分苑長であった松本先生が身体の具合が悪いときでしたので、その代理で餅まきのご用を私がさせて頂きました。
 その当時は松本先生が入院されていましたので、私ども夫婦が豊橋から神戸の分苑まで毎月車で通って月次祭をさせて頂いておりました。
 松本先生が不在の月次祭は参拝者が極端に少なく、分苑の維持が大変でした。この時、私は入社五年目ぐらいの時で、給料の実質の手取りが六万円ぐらいでした。その中から神饌物と教主様へは一万円、毎月欠かさず続けさせて頂いておりました。高速道路の通行料が出せずに国道を走ったりしていました。
 月次祭終了後はすべての元のように片付けてから帰るため、豊橋に着くのは毎回深夜でした。
 又、長男が赤子の頃、背中に背負って祭式講習会にも出ておりました。祭式指導員補を頂いてからは指導の補助にも行かせて頂いておりました。
 このころ新しい信者様を祭式講習会にご案内した際に、私は身体が弱く綾部から豊橋迄の約三〇〇Km、時間にして約六時間ぐらいの道のりを一人でとても運転できない状態でしたので、案内した方に運転を代わってと頼みましたが、「出来ない」の一言で結局妻が運転しました。妻は妊娠中でつわりがひどく食べられない状態であったため身体が極度に衰弱し、無理が重なり祭式講習会を終えて帰宅した翌日、身ごもっていた子をおろさなければならない状態となりました。
 これだけ命がけでお世話をさせて頂いたこの方も、分苑と私達の夫婦の悪口を本部にまで訴えて、分苑を出て行かれましたが、すべて私ども夫婦の身魂みがきだったと思います。
 このように自分たちでできるご用は命がけで一生懸命にさせて頂いておりましたので、そのご褒美として大神様が餅まきのお役に使ってくださったのだと思います。その後、私の亡くなった父がお取次ぎの時に出てきて、「健が御用をしてくれるので、私は今、霊界で長生殿の大工の仕事をさせてもらっている」と嬉しそうに言いました。父は生前に大工をしており、戦争で焼き出されてから仕事をかえて最後には保険会社に勤めておりましたが、父の天職奥はやはり大工だったのかなと思わせていただきました。もちろん神様からすれば私どものしていたことは小さい事かもしれませんが、大きなお陰を頂きました。

第69話 「一斉は神意」 豊橋市 YT様

七月三日に亀岡聖地を訪問し、皆神山の祭典に対する本部への正式なお願いに、長野主会の次長様と行かせ頂きました。その夜、綾部の松香館に移動して宿泊しましたが、部屋の掛け軸が三代様の皆神山のお歌「みすゝかるしなのゝくにの神山にともらつとひて世をいのらなむ」がかけられておりました。
 まさにこのお歌の歌碑を今回の祭典にて再建させて頂くのです。その御用をさせて頂いていますが三代様が御守護下さっていることを教えて下さったのだなと思いました。
 また綾部に着いて最初にお会いした方が、まさに我々が会いたいと念じていた方でした。翌日月次祭で長生殿に入るとまたばったりある方にお会いしました。その方も我々に会うことを待っていました。
 そういえば前日の亀岡に着いた時に最初にあった方もそうでした。今回は「偶然はなく一切は必然であり神意である」を何度も体験させて頂きました。

第70話 「三代様から名前を頂き変更した次の日に仕事が好転」 豊橋市 YT様

私の名前は、山本健司でした。 大本信者の故青木様が「司は死につながるから、運気の強い、けん にした方がよい」とのアドバイスを頂きました。早速三代様にお願いしましたところ、「山本 健」と名前を頂きました。しかし、読み仮名は「たけし」のままで良よいとのことでした。
 すぐに会社に改名届を出し、変更いたしました。会社では、山本の姓が多く、又健がケンと読みやすいため「やまけん」ニックネームにしています。そして十数年が経ちました。戸籍も十年以上経つと変えることが出来ると聞いていましたが、十年過ぎても特に急ぎもせず、そのままになっていました。
 平成十二年の十二月に三代様に名前を頂いていたのに、戸籍を変えていないのはいけないと気付き、急いで改名の手続きを取りました。
 裁判所の許可が降り、いよいよ役所に届けて、改名できた翌日にふとした話から現在の仕事につくことが出来ました。そのおかげで、今まで十年以上もやりたいと願っていた仕事を自ら実践することが出来、会社の上司も強力にバックアップしてくださり、市場のニーズにもマッチして現在順調に進めることが出来ています。
 教主様から名前を頂く事でこんなにお陰を頂けるのかと大変な驚きとともにありがたさでいっぱいです。

第71話 「節分大祭参加がきっかけで大本へ入信―心の拠りどころが出来、ありがたい―」 西宮市 FK様

私は昭和四十四年九月より現在の西宮に住居を定めました。バスを利用して、阪神電車西宮駅まで出かけます。その途中バスに乗りましたら偶然にも妹が乗っており驚きました。久しくあっておりませんでしたので帰りに立ち寄ってくれる約束をして居りましたので午後訪れてくれました。色々と話す中で大本の話を聞かされました。
 私も主人が外国航路の一員として勤務いたして居りましたので留守中の無事を祈る心が常にありましたので考えました。
 当時、松香分苑の松本松子先生にも紹介されまして温かい指導をいただき近づいて来る節分大祭に行く事を勧められ節分大祭に連れて行って頂きました。
 初めて見る色々の徹夜の行事に感動いたしました。くじ引きを引く所もあり、妹達にくじを引く様に進められて私も引きました。暫くして、私の名前が呼ばれ一等賞と言われて驚きました。でも、何か幸先のよさを感じまして入信させて頂きたく松本先生にお願い致しました。
 入信以来外国航路に居る主人の祈願も出来て、留守中の私の心の拠り所が出来有難く感謝いたしております。
 以来、神様にお願いをして救って頂いた事は、数多く有り、有難く体験させて頂きました。
 昭和六十三年、私の友人からカナダに行って良かったと聞き、行きたいと思っていました。でも、私の体調は行けるような状態ではありません。ぜんそくあり、不整脈ありで何をするにも息苦しく歩くこともあまり出来ない状態だったのです。
 主人も旅行好きで一緒に行ってくれるのですが、私の状態では主人も、行かせてくれないと思いますと、尚、行きたいと思うばかりでした。
 私は大神様にお願いするより道はなく、それから二十日後に出発のツアーに依頼していました。
 その反面、私がお願いして聞いて下さるだろうかとの不安もあり真剣でした。でも出発の日が来て最後の御挨拶を神様に祈願して家を出ました。大阪空港までは車ですがツアーの皆様と共に、行動が出来る事を祈り機上の人となりました。
 ここまで来たと云う喜びと不安な気持ちで落ち着きませんでした。その時、トイレに行きたくなり、水のような下痢の凄さに驚きました。でも体は軽く、体調もよく健康でした。間もなく緊張しながら一行に続いて空港に降りました。
 ツアーの一行の中に新婚さんご夫婦が居られ、私がよくトイレに行きますので列より遅れがちになりますのでよく導いて下さいました。ホテルに入るにもモタモタしているとスーッと来てドアを開けて下さいました。そのご親切は今に忘れることは出来ません。
 帰りはニューヨークのl五十三番街を歩いて見物をし、ワシントンに向かいました。ワシントンより大阪空港に帰るのですがツアーより離れて一行の姿が見えず、空港の広くて大空港なのでどうしようと、ウロウロするばかりでした。そうしたら新婚さんのご主人がこちらですよと呼んで下さってどんなに嬉しかったか感謝するばかりでした。無事大阪空港に帰ってきました。
 カナダなど行けないと思っておりましたので、大神様の御神徳を頂いた事、身を持って悟らせて頂きました。只、祈るばかりです。高齢者になりました今は、毎日大神様に感謝と日常の無難を念じつつ幸せに過ごさせて頂いております。ありがとう御座いました。

第72話 「大神様のご神徳で八十四歳の今も月次祭の祭員を」 西宮市 FY様

昭和三十年ごろ、以前に入った第一生命保険会社より医師同伴契約改新が目的か塚口の家に参られ、私の健康状態の検査を強制的に行い、その結果全ての点で不合格、再契約は勿論、一生涯生命保険には契約が出来ないようになっていました。日本生命が申すには貴方は第一生命会社よりドクターストップの申告通知が廻って居りますので、どこ共契約は出来ませんと断られる始末でした。
 昭和三十年ごろには六十歳までは持たない身体と、医師にも見離され生命保険にも入れなかったのに、八十四歳の現在も健康で支部の月次祭にも祭官を務めさせていただき喜びで一杯です。これは御祈願の御蔭と大神様の御神徳のお陰と毎日感謝で明け暮れて居ります。

第73話 「私の大本入信」 碧南市 KY様

きっかけは未信徒として受講した大道場修業だと思います。それまでに伏線があります。
二十代半ばころでしたか、妻の実家の向かいに、山本夫妻(現分苑長)が引っ越してきました。
 なにやら健康食品をしていて神主さんみたいと言うとらえ方でした。自然に実家の者は近所付き合いをしているようでしたが、私には直接関係は有りませんでした。
 それでも妻が鼻炎の相談に行ったり、節分の人型お払いも勧められるまま受けたりしていました。山本様が貸してくれた発刊したばかりの「神仙の人 出口日出磨」を、義父は「こんな偉い人いるんだぞ。お前も読んでみろ」と妻に手渡しました。 又貸しで我が家の本棚に長いこと眠っていました。
 私は読む本が無い時、仕方なしに手にしました。驚きました。何度も頭を張られる思いでした。厚い本ですが、涙ながらに一気に読みました。続けて日出磨先生の生きがいシリーズも読みました。しかし普通ならこのまま何らかの形で大本を知ろうとするのでしょうが、時節ではなかったのでしょう、初修行まで四年ほどかかりました。
 実家の前から引っ越した山本さんの奥さんの店に無添加の健康食品を買いについて行くのですが、その後オウム教の事件もあり、どうも神様とか信仰とかの話になるのが嫌で足を遠のくばかりでした。
 ある日山本さんご主人が「いい車乗ってますね。どう京都までドライブするつもりで修行に行ったら?」となんだか今思い出せてもあっけない言葉で人生の大転換期の幕が開いたのでした。
 修行中、妻の気分が悪くなり、島根の梶ヶ谷清さんにみ手代お取次ぎをしてもらいました。
 理屈が勝っていた私はそれでもまだ半信半疑でした。
 高熊山で鎮魂をしているとき、急に体全体を包み込むようなエネルギーと紫の閃光を浴びました。正座した上半身が平状したまま上がりませんでした。午後のお日様の下、なんのトリックも出来得ない中でのことに、さすがの頑固な私も降参しました。神様や霊魂の実在を、それまでも否定はしていませんでしたが、自分の人生に無縁のことと思っていました。その時「大本は素晴らしいところだと感じました。でも自分達の様に穢れて劣っている者は入信させてもらえないね、又いつか来られたら良いね。」と思って帰宅しました。修行から帰ってからというもの日常生活に支障をきたすほどに霊現象が続きました。 今思うとそれも神様からの試練だったのでしょうが、霊に尋ねていけばこれから先大丈夫だなどという邪まな感情も正直ありましたどうにも操縦ができなくなり、山本さん宅を訪ねました。玄関を入ってご神前から二間はなれた応接間に通されましたが、強い神光に座っていることが出来ず、ひれ伏していました。
 そしてご相談の上入信させて頂くことになりました。本当にいいのだろうかという謙虚な気持ちは今も変わりません。いまも尺度の基準は神様が好きかどうかだと思っています。  封印された話で発表することではなかったのですが、このたび分苑から神徳談集の第二巻が発刊されるについて入信の動機というテーマでの寄稿を募られましたので、これも時期かなと、一度も忘れることはありませんが、鮮明に当時を振り返ってみました。

第74話 「霊界物語で飲み込んだ針が無事に!」 守口市 SA様

大本の神様の教えを知ろうとするならば、お筆先の解説書とも云うべき霊界物語をどうしても必要とします。『このを読み批判や、研究をする態度はすでに身魂は根の国底の国に通うものと知れ』と聖師様のお示しがあり、また霊魂の向上の程度によりそれぞれが頂けるとあります。
 この宇宙、現幽神全てを御創造なさった大国常立尊は三千世界を救済のために瑞の御霊にこの霊界物語を救いの鍵として私達におくだし下さった偉大なる神書大神様の御作品であり、如何に考えようとも人間の知識や学力では解す筈も無く、わからなくて当たり前であり、私がこれをするは慢心取り違いに走る事を心に言い聞かせながら物語やお筆先の拝読を毎日励ませて頂いております。素直な気持ちで一生懸命声をだして拝読させて頂いている内に時として現在困っている答えを的確に教えてくださる事が度々あります。
 まず拍手をして「艮の金神様、瑞の御霊の大神様ただ今より拝読させて頂きます事をお許しとご守護をお願い致します
 聞きに来て居る諸々の霊魂にも大神様の御心のままにお祓いと御神徳下さいませ」又拝読終わりますと「ただ今は結構な御神徳を賜りありがとう御座いました。」と拍手で終わります。
 拝読や浄書の時間は多用の中でもできるだけ同時間にさせて頂く様努力をしています。 昔いただいたおかげ話を紹介させていただきます。子どもが乳児期に子供達のおやつ代のためと紳士服の内職をしておりました。
 針があぶないので子どもの昼寝の間とか、夜分子どもの寝た後に内職をしていましたが、その時は急の仕事が入り、止むに止まれずに仕事に熱中して居りますと、子どもがハイハイをして来たかと思うと、あっという間に縫い針を口に入れてしまいました。 びっくりしましたが昨日拝読した中に、針を飲んだ時に助かるマジナイが書いてあり、それを思い出して早速に御神前でお願いをして実行し一日程待ちましたら、ウンチの中より縫い針が二本出て参りました。
 どれだけ心配を致しましたか知れません。その後物語の拝読の場所を一生懸命捜しましたが、何処にも書いてありませんでした。
 大手術をして針を取り出す処を大神様に助けていただきました。
 又、長男の将来を定めねばならない時期の事でした。その頃、親の言うことは一切聞かず、毎日大神様にどうか行く末間違いのないように、正しく方向をお導きくださいませと、祈り続けており、本人の希望のまま進ませてやる事に致しました。
 私としては松下電器を受けさせてやりたく思っていました。ある朝、物語拝読をいつもの様にさせて頂いておりますと誰も居ないのに松下電器、松下電器と二言声が聞こえ不思議なことだなあと思って居りましたら、長男から電話がかかり、「母さん今ひとつだけ願書を提出せなならんが僕の学校の推薦はトヨタだけど先生がお母さんの希望もあるから補欠ならかまわん、その代わりすべるのは覚悟の上でならと言っていられるが、どちらを提出したらよい」との声で私はかかさず松下電器に、と勧めました。
 その後受験者全員駄目で補欠の息子が満点に近い成績で入社を定めました。担任は、二、三年本校から一人も入社出来てないのに不思議だと云われました。このように霊界物語の拝読に依って私は度々する様な御神徳を頂いております。皆様方の中にも私どもの様な御神徳を頂いておられる方は多々御座いましょうが、ここに二つの例を挙げさせて頂きました。

第75話 「阪神大震災で神様より大きなおかげを頂く」 神戸市 UK様

平成七年一月十七日早朝ドーンと突き上げられ、ドドドと凄い揺れでした。すぐに地震と判りました。頭より布団をかぶり、「神様、カンタマ、カンタマ(かんながらたまちはえませ)」と念じていました。隣の部屋では「惟神霊幸倍へまで」と主人が大きな声でお詫びをしています。
 私も、同じ気もちでいっぱいでした。とにかく、主人の無事が判り安心いたしました。少し揺れが止まった時に玄関に走りましたがもう私の力では開きません。ドアの外から「だいじょうぶですか!」と懐中電灯を持った男の方の声が聞こえ走って通り過ぎて行きました。とりあえずロウソクはいつもの場所にあったのでつけ、主人を安全な場所へと思ったのですが、家を出ることが出来ません‼
 外で再び男の方が「だいじょうぶですか!」と大きく声をかけてくださいましたので、ドアを叩き、「開かないのです、出ることが出来ません…」と助けを求めました。幸いに窓が開き男の方が窓を乗り越えて入ってきて、ドアをこじ開け、主人をおぶって外の通路に出してくださいました。すでに出ておられたご近所の方々の無事な姿に出会いほっとしました。
 外を見渡すと、うす暗い中でボゥ―と明るくなった所は火事になっていました。その時はこんなに大変なことになっているとは思いもしませんでした。
 揺れも止まり、夜も明けてきますと。ロウソクの明かりでは見えなかった家の中が判りだしました。台所は少し散らかっていますが無事で主人のベットの周囲は、前日と変わりなく棚の物も落ちずに、洋服箪笥もそのままです。もし倒れていたら、足の悪い主人は避けて出る事は大変だったでしょう。
 となりの部屋を見て、「えーッ」と驚きました。私が寝ていた部屋の中は大変なことになっていました…余りのひどさに驚き、暫く経っても動けませんでした。
 天声社で作っていただいた組立式神床が倒れて神床の柱やハリもハズレています。布団の二~三cm離れた所に神床が倒れていて松立てのお水が敷き布団を濡らしています。思わず「助かった!ありがとうございます」とお礼を申しました。
 前夜いつものように寝床の用意をしたのですが枕を置いた時に「アレ、私何でこんなずれて敷いたの…?」いつも部屋の中央ご神前近くなのに、ずぅーと下がって部屋の片隅になっています。変だなと思いつつそのまま寝ました。
 いつものように布団を敷いていたら、今頃は、下敷きになりきっと死んでいたことでしょう。
 身代わりに神床だけが倒れて、本やタンスはそのままだったのを見て、本当に神さまが助けて下さったのだと改めて実感しました。
 神床を早く元のように組立てお祭させて頂かないと申し訳ありませんので、左半身不随の主人も同じ思いで、二人力合わせて一生懸命に直しました。
 今もご神前に座り神床の柱のキズやハリの隙間のズレを見る度に、前夜の寝床の事、ご近所で主人の身体を気にかけていて下さった方の弟様が偶然に泊まっていた事、後でどのように考えても小柄な私と主人とでは、出来かねる神床の組立等々その他、重なる多いなご守護を神様から頂きました。
 神様のご守護また分苑長をはじめ松本先生皆様方に心から感謝とお礼申し上げます。ありがとうございました。

第76話 「日々の生活の中」 神戸市 NK様

今大変なイラクに、主人が二度も赴任していました。当時もイラン・イラク戦争の時で心配な日々でした。会社の方からも何度も安否の連絡がありました。
 主人が不在の際に子供達が受験で、私一人で何かと思い悩んだこともありました。それでも子供達も途中、道に迷うことなく無事に卒業し、社会人として働いております。
 私も幸い聖地が住居に近く、月次祭に参拝し、その後は支部の皆様方とご奉仕をさせていております 平凡なことかもしれませんが、衣・食・住に心配することなく、家族が元気で毎日を過ごさせて頂けることの喜びを感謝いたしております。そして何よりも世界中の人が同じような幸せと喜びを感じることのできる平和な世の中に一日も早くなりますように、大神様の御守護を願わずにいられません。

第77話 「無意識のなかでの咄嗟のハンドルで助かる」 豊橋市 TY様

若い時から写真が好きでシャッターチャンスを求めて車で各地へ出向いています。一人で行くこともあり、仲間と出かけることもあります。
 平成十五年の秋、十月上旬。この日も夜立ち日帰りで、志賀高原の秋を写そうと友人二人と計画しました。夜十時、友人の車で出発。夜中の三時頃、白根山火口の近くに車を止めて場所取りのために三脚を立てて、一時間ほど車中で仮睡を取りました。暁天、朝陽をカメラに収め白根山に登る。目的は達成され帰路につきました。野沢温泉の方から回って帰る予定でしたが、途中で、直接帰るコースに変更することにしました。中野インターで昼食後、私がハンドルを握り高速道路に入りました。私は生まれてはじめて居眠り運転を体験することになりました。小布施のサービスエリアを過ぎたあたりから眠くなり、運転を代わることも出来ず、何とか次のサービスエリアまでと思っていました。突然、足を何かに引っ張られるような感じで、一瞬、トロトロとしたようです。「危ない」とかいう友人の声が耳に入りました。眠気が来た時から何か左へ左へと向いているように感じていたので、本能的に右にハンドルを切りました。冷や汗がスーと流れ、目が覚めた思いです。後で聞くとほんの一メートルほどで左山肌に激突かというところだったそうです。
 感覚のない中で無意識に右に切ったハンドル。生命を頂き、大きなご神徳を頂きました。

第78話 「四代様の年祭に参拝して」 豊橋市 SM様

あれは今年の四月二十七日だった思います。
相談役から「二十九日の四代教主様の三年祭に行きませんか」といわれ、今年は孫の学校の事もあり行かないつもりでしたのに、二十九日は部活が無いから行けることになりました。(これも神さまのお陰です)
二十八日夜、亀岡に行く車の中で相談役から一日二日前位に「美栄さんの守護霊が出てきて、今度お参りに行くと、とても嬉しい事があるとのことです…何でしょうね」と、言われました。
 私も「何かなあ…」と思ったぐらいでした。でも四代様の年祭が終わり、帰りの車中で相談役がお取次ぎをしてくださって「美栄さん副守護神が出ました。それは『ひがむくせ』よかったですね」と、言われましたが…自分としては「そんなに私ってひがみやじゃないのにあー」と、思っていましたが、帰って娘に聞いてみましたら、「お母さん前からものすごくひがみがひどいものよ!でもよかったね」と言われビックリしました。
 生まれては死に、生まれては死に何度も繰り返しても、ひがむ癖はついて回っていたのですね。あれから自分自身も「ちょっと性格がかわったかな」と思っています。
 無くて七癖あって四十八癖と言いますが、この癖が副守護神のようです。めぐりはご神業とお取次ぎで大神様のお陰でとっていただけますが、副守護神は、これに加えて、自分自身の悪い霊と戦う、たゆまぬ努力が必要です。
 この副守護神を一つとって頂き大きなお陰を頂きました。大神様ありがとう御座いました。

第79話 「聖地参拝でご神徳」 三島市 HM様

以前、大道場修業でご一緒だった未信徒の方が、他の信徒の方々とも、とても意気投合して楽しい五日間を過ごし、聖地での生 活に気に入られた様子でしたので是非又聖地へ足を踏みいれて頂きたいと思うと共に、大祭に参拝をお奨めしたいと思っていました。
 瑞生大祭前日、万祥殿で朝拝の時、この思いを一層強く感じ、巡拝の後でその女性に電話をしてみました。すると「今日は、都合が悪い」と言われ、電話を切りました。もっと、早い時期にお誘いしていたら、大祭に参拝して頂けたかもと思い、しきりに反省していましたら、その夜、安生館の前の受付でバッタリその女性にお会いしました。私が驚いてなぜこられたのかを聞くと、私からの電話を切った後、前日より来ていた、お客さんが「急用ができたから帰る」と言って帰られたので急いで支度をして特急に飛び乗って、今着いた所だったそうです。
 私は神様とご縁のある方は、ちゃんと神様が引き寄せてくださるんだなぁと思いました。
 又、翌日の大祭当日、安生館の下駄箱に置いたその方の靴が無くなってしまいました。とても気に入っている靴なのにと、とても残念がっていました。未信徒の方を、初めて大祭にお誘いしてこんな事になり、責任を感じ、悲しくなりました。必死に神様にお願いをして、その方と共に、下駄箱や参拝者の中を見て廻りましたが、大勢の人々で、とても見つけることが出来ませんでした。その方が、「もういいから」と言って下さり、丁度二つ空いていた参拝者の席に座りました。後ろを振り返ってみると、その方の靴を履いている人がいました。
 何千人もの参拝者の中で見つかるなんて本当に神様のお蔭だと思いました。

第80話 「ご守護の体験「噂をすれば影」」 横浜市 TT様

平成十五年四月三日のことです。知人に気を遣って発した言葉が、相手に不快を与えてしまったことに気づきました。その後で、頭と胸が痛くなり、黙っていればよかったのにと後悔し、仕事も手に付かず、落ち込んでいました。その時「そうだ神様にお願いを」と思い、「神言」を奏上し相手の方の名前を上げ、「自分の思いと違う言葉を発し、本当にご免なさい」とあやまりました。すると、即、胸がスーッとして頭もスッキリし、一瞬の内にああ許してもらえたのだと思いました。
 その場ではっきり分かるお陰が頂いた経験は初めてで、家に帰って、神様にお礼を申し上げました。(過去にお陰を頂いても気が付かない数々のことにも気づかせていただき、改めて感謝の思いでいっぱいでした。)
 相談役の山本文子様にお話ししましたら…「噂をすれば影、と昔から言います。その人の思いが先に来ているので、その人のことが想念に入り話題になったわけです。人の思いは、品物でもついてきます。ましてや拾ったものにもついていますので、その方が心からくれたものはいいですがそうではなく嫌々くれたものは気持ちが悪くなったりしますよ」と言われました。
 人にものを差し上げる時には、真心で差し上げる事が大事なのだと痛感しました。

第81話 「四代教主様に救われる!」 静岡県 FE様

ご年前の八月末、岡山に住んでいる息子が帰省するために夜高速道路を自動二輪で走っていました。数時間後、睡魔に襲われ、ハッと気が付いた瞬間脇のフェンスにぶつかってしまいました。履いていたジーンズは破れ腿に切傷を、腕は上着が着れない程破れましたが軽いキズですみました。
反対の走行車線に走っていって他の車と衝突したら…と、思うとゾッとしました。バイクからガソリンを漏らしながら近くにあったサービスエリアまで何とか走りましたが着くと同時に全く動かなくなりました。もし高速道路で動かなくなり放置すれば大事故を引き起こしかねません。 
 一晩そこで野宿し、朝を迎えました。すると高速バスが来ました。その場所はバスが休憩のために立ち寄るところだったのです。 そこでバスに乗せてもらい何とか静岡に帰ってきました。
 息子から連絡を受け、山本文子さまに電話で報告しましたところ、「四代教主様がお布団で包んで助けて下さったのね」と言われました。衝撃を受けるとともに感謝の気持ちでいっぱいでした。
 実は、この年の九月に四代教主様が松香分苑にご神教においでになられる為、私が新しい寝具をご用意させて戴き、分苑の送り、その寝具が届いた日だったのです。神様の幾重にも重なる御神徳の深さに感謝いたしました。
 御用させて頂くという事は自分の為にさせて頂いているのだなと教えられました。これからも思いは変わらず精一杯御用させて頂きたいと思います。あれから息子は学校を卒業して御神号幅を御下附して頂いてアメリカへ一年間修行に行き、今、北海道の牧場で元気に働いています。
 昨年、今年と北海本苑に参拝させて戴きました。真剣にご神前で礼拝している息子の姿を見て嬉しく思い、又、安心しました。大きな御神徳に感謝しております。

第82話 「神様にはいつも良いように!-家族そろって参拝とご奉仕」 湖西市 KF様

私の主人は転勤が多く子どもが小さい間は付いて行きました。
 私としては分苑を離れ淋しい思いでしたが、今思えばそれも大きなお陰でした。今は子どもも大きくなり主人一人単身赴任していますが、その頃の転勤先は滋賀県の草津でここでの生活は一年九ヶ月子供達も小学校の一部をここで過ごし、私もここで過ごしました。分苑に時々行かせて頂いていた頃と違い、何か心に穴が空いたような淋しい気持ちでいました。
 しかし、本部に近い為、家族揃って月次祭に参拝しご奉仕が出来、主人が忙しい時は、私と子どもとで祭式講習も受けるようになり、いろんな面で、本部へ行くきっかけになりました。子どもは、夏季学級に参加、友達ができ、小年祭・青年祭などにも参加させて頂いています。祭式講習会の参加も多くなり、まだまだ未熟ですが、私は指導員補、長男は一級、長女も上手に出来るようになれたのも大変なお陰を頂きました。
 どこに住んでいても、そこで出来る事を精一杯させいただく事が大切であり、お陰を頂く事が分かりました。当初、いやだった移転も、結果は良く、神様は良い様に良い様にその状況にして下さっている事は、後になって始めて分からせて頂けました。

アニメ 「竜神に乗った少年」
 (著作権は大本松香分苑にあります。商用目的での利用はできません。DVDは天声社で販売しています。)


「竜神に乗った少年」
 第一話「霊界探検」 0~19分
 第二話「天国へのチケット」 19分~46分
第二話の解説(▶をクリックすると表示されます)  

「天国へのチケット」の話は、松香分苑の原点である、初代分苑長松本松子が幼少時代に頂いたお蔭話であり、 又神様の存在を確信し、「神様の御用第一にして、正しい願い事なら、必ず神はこの世にあり、お聞き届け下さいます。」 ことを体験できた話でございます。特に、産土の大神様から次のような言葉を賜りました。
『私は産土の神である。汝の前世の罪は大きくて一生盲目で過ごさねばならん所を国祖大神様が綾の聖地にご降臨されて世人を救世されている。国祖大神様の大愛により、目を開けて頂けた』
この二年後に、国祖の大神様が、綾部の大本にまつられていることを知り、すぐに御礼の為に参拝し、修行を受け入信されました。今の松香分苑の原点となった、ご神徳談でございます。 この話を通じて、大神様の存在とその大愛とお力を知っていただければ幸いでございます。

 

健康講座 by 伴東洋治療院
 尼崎市にある伴東洋治療院の伴吉信院長による東洋医学に基づく健康講座です。バックナンバーは資料・リンクのページにあります。


第三回  2023年8月23日収録
 健康講座第三回目は、身体に現れる様々な症状と対応する内臓器官の働きとの関係について解説します。
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