大本松香分苑

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更新情報

---What’s New---
2023/06/02
NEWご神徳談集第37話をupしました。
2023/05/19
5月度月次祭の写真と松香通信、ご神徳談集第36話をupしました。
2023/05/10
4月5日開催の健康講座の動画をupしました。当日視聴されなかった方は是非ご覧になってください。
2023/05/05
ご神徳談集 第35話 「他宗教を辞めると命がないと言われて」 神戸市 TA様を掲載しました。
更新情報をページの最初に配置しました。
2023/04/21
ご神徳談集 第34話 「神様の御蔭で子宮癌を克服した私」名古屋市 MM様を掲載しました。
松香通信4月号、春季大祭の写真を掲載しました。
2023/04/7
2023/03/24
NEWご神徳談集 第32話 「熱湯のはずが冷水に・・・」(神様が頭にかかる瞬間水にして頂く)徳島市 IF様を掲載しました。
2023/03/17
松香通信3月号、月次祭の写真、松の苗の植樹の写真、令和4年決算書を掲載しました。
2023/03/10
ご神徳談集 第31話 「ご神水を両目につけて視力回復したわが子」豊能郡 IH様を掲載しました。
2023/02/24
ご神徳談集 第30話 「原因不明のゼンゾク」(喉にうろこ状の痕が…お取次・お清めでみるみる良くなる)豊能郡 IH様を掲載しました。
2023/02/17
松香通信2月号、月次祭の写真、松香分苑ホームページの案内チラシを掲載しました。
2023/02/10
ご神徳談集 第29話「一億円のご神徳」西宮市 TI様を掲載しました。
2023/01/27
ご神徳談集 第28話「無事帰ってきた娘(一才八か月)四キロ先の山中で発見‼」豊橋市 KF様を掲載しました。
2023/01/13
ご神徳談集 第27話 「長生殿参拝で歩けるようになった」名古屋市 OT様を掲載しました。
松香通信1月号、新年祭の写真を掲載しました。
2022/12/30
ご神徳談集 第26話 「度々のお取次で忘れる様に病気が治っていた」  神戸市 IK様を掲載しました。
2022/12/16
ご神徳談集 第25話 「大難を小難に 小難を無難にして下さる神様」  西宮市 TT様を掲載しました。
松香通信12月号、12月度月次祭の写真を掲載しました。
2022/12/2
ご神徳談集 第24話 「死を覚悟して」  山本 文子 を掲載しました。
2022/11/25
ご神徳談集 第23話 「言霊武道『和良久』で体力回復」  山本 文子 を掲載しました。
2022/11/18
ご神徳談集 第22話 「煎じ松の効果はすばらしい」  山本 文子 を掲載しました。
松香通信11月号、11月度月次祭の写真を掲載しました。
2022/11/11
ご神徳談集 第21話 「印象の深いお取次」  山本 文子 を掲載しました。
2022/11/4
ご神徳談集 第20話 「一番感心する人のお取次ぎ」  山本 文子 を掲載しました。
2022/10/29
ご神徳談集 第19話 「病気平癒祈願祝詞はすごい」  山本 文子 を掲載しました。
2022/10/21
ご神徳談集 第18話 「お茶人」  山本 文子 を掲載しました。
リンクのページに株式会社ルーモを掲載しました
2022/10/14
ご神徳談集 第17話 「心肺停止で霊体験」  山本 文子 を掲載しました。
松香通信10月号、秋季大祭の写真を掲載しました
2022/10/4
ご神徳談集 第16話 「教主様のお写真より 金色の神様が現れる」  山本 文子 を掲載しました。
2022/09/30
ご神徳談集 第15話 「霊界からのメッセージ」  山本 文子 を掲載しました。
2022/09/23
ご神徳談集 第14話 「人の思いは恐ろしい」  松本 松子 を掲載しました。
2022/09/16
ご神徳談集 第13話 「御神水で蛙の子が苗代に入るのを防ぐ」  松本 松子 を掲載しました。
松香通信9月号と月次祭写真を掲載しました。
2022/09/9
ご神徳談集 第12話 「ハンセン病者がお松とお土で完治した」  松本 松子 を掲載しました。
2022/09/2
ご神徳談集 第11話 「御神水で胃ケイレン治る」  松本 松子 を掲載しました。
2022/08/26
ご神徳談集 第10話 「先祖が復祭をして救われた」 松本 松子 を掲載しました。
2022/08/19
ご神徳談集 第9話 「まさかの時は親子でも仕方がない!」 松本 松子を掲載しました。
2022/08/12
ご神徳談集 第8話 「大神人・出口王仁三郎聖師様の御葬儀に 参列の奇跡」 松本 松子を掲載しました。
2022/08/5
ご神徳談集 第7話 松本松子の幼少~15才まで ⑮を掲載しました。
全国一斉平和祈願祝詞、および新型コロナウィルス早期終息祈願祝詞を信徒専用ページに掲載しました。
2022/07/29
ご神徳談集 第6話 松本松子の幼少~15才まで ⑬、⑭を掲載しました。
2022/07/22
ご神徳談集 第5話 松本松子の幼少~15才まで ➉、⑪、⑫を掲載しました。
2022/07/15
松香通信7月号、月次祭の写真を掲載しました
ご神徳談集 第4話 松本松子の幼少~15才まで ➆、➇、➈を掲載しました。
2022/07/08
ご神徳談集 第3話 松本松子の幼少~15才まで ➃、➄、➅を掲載しました。
2022/07/01
ご神徳談集 第2話 松本松子の幼少~15才まで ➀、➁、➂を掲載しました。
2022/06/28
ご神徳談集 第1話「母の思い出」を掲載しました。
2022/06/12
松香分苑6月度月次祭・山本文子相談役一年祭を斎行しました。祭典の写真と松香通信を掲載しました。
2022/05/08
松香分苑5月度月次祭を斎行しました。
2022/05/01
松香分苑ホームページ開設しました。

松香分苑について

松香分苑は130年の歴史を持つ宗教法人・大本の地方機関の一つで愛知県豊橋市に拠点があります。

祭典
春季・秋季大祭 四月・十月第二日曜日
月次祭     毎月第二日曜日  

 

沿革

 松香分苑は、徳島県鳴門にある十二神社の神主の家に生まれた松本松子(旧姓宮崎マツ)が、昭和42年3月3日に、「松香支部」と三代教主出口直日様に御命名賜り発足した大本の一機関です。地域ではなく、松本松子がお導きした信徒を中心として設立された大本では稀な機関であり、信徒は関東から関西まで広範囲にわたっています。

 当分苑は、初代分苑長をはじめ、松子の長女山本文子が二代目を引き継ぎ、「大神様の存在を一人でも多くの方に知っていただくことで、皆に幸せになって頂きたい」と、アニメビデオ「竜神に乗った少年」や「天国へのチケット」、そして信徒が大神様から頂いた「ご神徳談」を編集発行する等、時代に即した宣教活動にいち早く取り組み、大きな功績を残しました。また、御神書拝読による自分自信の魂の向上を図りつつ、病気祈願をはじめとする、お世話活動を徹底して実践してきました。「信徒は皆家族」とした信仰の姿が、創設者から引き継がれた松香の文化です。詳細は「松香の歴史」をご覧ください。

十二神社前    松本先生

各種祭典・式典・ご祈願お受けいたします。日本古来の神道様式で厳粛に斎行させて頂きます。

地鎮祭・上棟祭・各種慰霊祭・結婚式・葬祭・交通安全祈願
病気平癒祈願・合格祈願・厄除け祓い・身の上相談 

アクセス
〒440-0014 愛知県豊橋市南牛川 2-3-20   Tel/Fax 0532-63-2173

お知らせ(祭典・行事の予定)

■ 次回のご神徳談集 第38話 は6月16日(金)にUPします。

■ 6月11日に松香分苑6月度月次祭を斎行します。ご参拝の方は事前にご連絡下さい。

■ 松香分苑ホームページを紹介するチラシを作りました。プリントして宣教にご活用ください。

画像をクリックすると拡大表示されます。

PDFはこちらからダウンロード




■ 2022年11月13日に日本体育大学教授の具志堅幸司先生の講演会が桜丘学園 中高等学校(豊橋市牛川)で開催されました。
 桜が丘学園の生徒さん、学校関係者、分苑関係者合わせて150名もの方々に来場頂きました。心よりお礼申しあげます。
 当日の講演の映像を公開しました。下記の映像をクリックするとyoutubeの松香分苑channelで視聴できます。
 「高い志をもって本気で努力を重ねれば夢は実現できる!」という実体験に基づいたお話です。是非ご視聴下さい。
 下記の案内チラシは画像をクリックすると拡大表示できます。

ご神徳談集から (はじめにと第一話は常時掲載。バックナンバーは資料・リンクのページにあります。)

ご神徳談集  ご神徳談集について 
松香分苑の信徒が頂いたさまざまのご神徳談を、二代目松香分苑長の山本文子が、 二話のアニメビデオと3冊の小冊子にまとめ編集しました。 この中から、順次皆様に紹介してまいりますので、ご参考になれば幸いでございま す。 最初に、松香分苑の原点である初代分苑長の宣伝使・松本松子氏と、そのあとを継いだ娘、宣伝使山本文子氏のお蔭話から順次ご紹介してまいります。
内容は
1, 母の思い出:お蔭は、徹底した信仰生活から頂ける
2, 初代分苑長、松本松子宣伝使のお蔭話シリーズ
3, 二代分苑長、山本文子宣伝使のお蔭話シリーズ 
4, 信徒の方々のお蔭話シリーズ
   なお、順序は都合により変わることもございます。ご了承ください。 ▶をクリックすると表示されます
はじめに  

「大本」は明治二十五年に京都府綾部市に開教し、今年百二年を迎えました。 私の母であります、松本松子は平成四年で「大本」信仰一筋五十年となり、その間数々の奇跡的な御神徳を頂き、多くの方々をお導きさせて頂きました。  
 母松本松子は、生後間もなく三男の兄に胸の上に飛び降りられ、当時、脳膜炎と言われ、これが原因で失明。  将来のことを思い悩み自殺をしようとする寸前に「祈り」により神の光を受け目が見えるようになる。これより母は、神様より命を頂いたので、人様の手助けを自分の一生の使命と考え、多くの方々に神様の存在を話して活動する。この間、結婚後、間もなく過労の為に結核にかかる。更に長男出産後、高熱の為に右乳を七回切除。  
 四十才代に入り子宮癌になるなど、何度も死に目に合いながら、その度、大きな御神徳を頂き「入り豆に花が咲く」のたとえ通り今年元気に七十九才を迎える事が出来ました。  この度、大本松香分苑が神戸市より愛知県豊川市へと大移動し、大本松香分苑長も松本松子より私の引継ぎさせて頂きましたのを一つの区切りとして、松本松子が数々頂きました御神徳談の一部と、信者様の体験談の一部をご紹介させて頂きます。  
 この本を読まれて、一人でも多くの方が「大本」のすばらしさを知って頂きお陰を頂いて下されば、幸いに存じます。

 
第1話 母の思い出 山本 文子  

私の母松本松子は、平成八年1月三十日に八十一歳で宣伝使の生涯を終えました。私は兄が一人おりました。私が生まれる前の日まで宣教活動をしており、三代教主様からお葉書で、男子の場合と女子の場合の両方の名前を頂きました。その日のうちに礼状をポストへ出しに行きその帰途に陣痛が来て、翌朝私が生まれました。

 

私は学校へ入学するまで母の背で宣伝歌の子守歌で育ち、その頃は大本でも子連れ宣伝使として有名だったそうです。とにかく母は霊界物語に出てくる宣伝使の様で一日睡眠時間三~四時間、一日多い時は六十人のお取次ぎと身の上相談を受けていたとの事でした。私は母が各地宣教に行く度に信徒さまのお家に預けられ、各家をまわっておりました。私が学校へ通うようになると、本格的に母の宣教活動が始まり、二年に一日だけボロボロになった着物(昔は銘仙と言って布地が弱かった)とすり減った下駄を履き替えに帰って、翌日、または長くいて二~三日で出かけていきました。 私は小学校入学式も隣の家の小母さんに連れて行ってもらいました。  その頃は戦後でしたので、一家は大本信徒さまの特任宣伝使をされている人のお誘いで徳島の山奥に疎開しておりましたが、その人に、神様のお道が開けるから、支部の為の家をたてなさいと言われ、父はその通り建てましたら、完成した直後に、その人から神様の命令でと言われて家をとられてしまい、この嫌な思いをしてからというもの大本信仰に猛反対するようになり、母が宣教活動できない様に、帰ってきても下駄を隠したり、お金を隠して出かけられないようにしたりしておりました。しかし母の意志は強固で、山から材木を満載したトラックの材木の上に、無料で載せてもらい、四時間も、振り落とされないように材木にしがみついて徳島市内の信徒様のお家へ行くこともありました。

 

私の友人は、私の家が父子家庭だとずっと思っていたようです。子どもや家庭の事はすべて神様が良いようにしてくれるから私は人助け第一でと、それを貫き通した人生でした。そんな母に私も反発した頃があり、幼少の頃から朝夕拝は欠かしたことはなかったのですが、それは朝起きて顔を洗うといった生活習慣でしかなく、家庭を顧みない母に不満もあり、いつしか心は大本の神様から離れ、キリストの日曜学校に通ったり、仏教のお話を聞きに行ったりしていた時もありました。その頃、父が末期の肝臓癌となり、重体で入院させてもらえず病院から帰された時、兄と二人で随分悩みました。母はと申しますと、「信徒様で癌の方を三人も引き受けて御祈願、指導しているので今は家には帰れない、主人が病気と知らせたら皆さんに心配かけるので何も知らせず、亡くなったら『すぐ帰れ』とだけ電報を打ちさない」と。私はそこまで強い信念を持っている母の信仰態度に「待てよ、私も一度真剣に祈る価値のある神様かも?」と気付き、二十一日間私なりに望み事をお願いしてみました。するとぴったり二十一日目に希望が叶い、もう一度違った、自分としては不可能に近い望みを二十一日間頼んでみました。それも二十一日目に叶ったのです。  しかし、一~二度は偶然かもしれないと考え、三度目は父の病気をお願いしました。名医と言われていた小松島の信徒様の加藤病院長様も往診に来て下さり、よくもって一週間と言われ、その時、手足は細り顔は土気色で腹水でお腹は異様に大きく腫れ、尿毒症も起こしており、どのお医者様にもさじ投げ状態でした。

 

私は  本当の神様ならば助けてくれるに違いない、(母が家庭も顧みず、宣教活動のみしている)と祈願をしました。すると、祈願二十一日目に母が突然帰宅し、母は「いつも元気いっぱいの自分が、主人のことを思い泣きながら綾部の本宮山で祈っている姿をみて、不思議に思った古い信徒様が、事情を尋ねてくださり、その方が、自分が万が一の時に飲もうと肌身離さず持っていた、たった一つの開祖様のおひねり様をあげますと、おひねり様をくださり、その足ですぐ帰ってきたので、すぐ父さんに飲ませるように」と言い、すぐご神水で飲ませました。すごく大きい紙のおひねり様でした。飲んで半日くらいたった頃、突然父のお腹がすごい音がして汚物が排泄され、四十二度以上の高熱がその日からピタリと止まり、食欲が出てきました。主治医や近所の人の驚きもさることながら、私は、このことで、大神様の存在を信じることになり、それからは自分自身のお祈りの仕方や態度が一変しました。その当時父は五十歳でした。母は一言も私に「祈れ」とも何も言いませんでしたが、時々祝詞奏上が嫌になった時は、そういう時こそ這ってでもご神前に行き祝詞を奏上しなさいと注意されました。

 

母の晩年に、朔日参拝しておりました頃、梅松館の受付の若い男の方が母を見て、「宣伝使松本松子先生と、三代様が良くおっしゃられるので、どんな人かと思っていたら,何だ、こんなお婆さんか」といわれ、私は驚いて、「何でですか」と聞き返しましたら、「この大本のなかでも三代様が宣伝使○○先生とおっしゃられる人はこの松本さんしかいないので、もっとすごい人と思っていたので」と言われました。確かに母は、三代教主様のお言葉通り、生涯宣伝使だった思います。私が長女出産の時も、神戸にいた母は、信徒様の仲人に行き、主人の姉が病院に手伝いに来て下さいました。母として、妻としての母はとても家庭的な人であり、いつも家族の事を思っていました。ですから格別、家庭の事が出来ないことが辛く、修行であったと思います。しかし、母は「神様に失明している目が開けてもらえば一生神様のことを人々にお伝えします」という願をかけ、それを実践した人でありました。母は六十五歳の時に、頼りにしていた兄(三十五歳)が昇天したときも、一度も神様に不平を言わなかった人で、信仰の道の師匠として、尊敬できる人でした。私は、祈って神様に通じないものはないという不動の信を母の背を見て教えてもらった気がします。私もご祈願と身の上相談で家のことが不十分になることもありますが、主人は信仰熱心でありますし、子どもたちもよく手伝ってくれるのでなんとかやれております。  母は信仰一筋五十年の褒章の時に、尊師様の「原」というご染筆を頂きました。確かに母は、荒地に種を蒔き、原野を耕していった苦労の一生でありました。そして、この松香分苑の原点となってくれた人でもあります。母の意思を継ぎ、私も宣伝使として宣教活動にひたすら励んでおり、全国お導き功労者褒章を頂きました。これからも母の生きてきた道に恥じないよう、精進努力を忘れず、ご神業に邁進していきたく思います。  
最後に母が好きだったお歌を紹介します。  
 「聖師様お歌」  
   ここだくのなやみ憂いもみこころぞ  
       やがては開く花の春来ん

第2話~第14話(初代分苑長 松本 松子のご神徳談)は資料・リンクのページをご覧ください

第15話 「霊界からのメッセージ」 山本文子

 「霊界からのメッセージ」
《兄の死》
私の兄が病死した時の事です。危篤になりある病院の集中治療室に入院して意識のないまま三日目を迎えました。心臓が悪くて倒れたのですが心臓だけは頑張って動いていました。倒れた兄自身も努力すれば助かると思っていたのでしょう。お医者様も「よく頑張っていますよ」とのお言葉を頂いていましたが、もう三日目になると、他の胃とか肝臓からすでに出血が始まっていると告知された時、母は覚悟して集中治療室の兄に面会し、兄のベットの所に行き、心で兄に「今度の発作は大きいのでもう助からない、あきらめて霊界へ行きなさい」と念じたと同時に鼻から血をたらりと出すと同時に心臓波を停止しました。病院より遺体で帰った兄に、私が、「お帰りなさい」と声を掛けたら鼻血がスーと出て知らせてくれました。私にとってはたった一人の兄でしたから霊界のある事は、大本のご神書である霊界物語(全巻八十三冊)で良く知っていても寂しくて心に大きな穴があき、落ち込んでいました。すると死んだ筈の兄が毎晩五十日間(神道は五十日祭・仏教は四十九日)私の夢に出てきて、死んだ日からの状態を教えてくれました。 
《死後の五十日間》 本葬の時は私どもに混じって兄が一番よく会葬者に頭を下げていました。亦、十日祭の頃になると一度赤ん坊になって三才位に成長していました。霊と言って霊魂を祭ってある前で兄嫁の母が毎日霊界物語を音読(声を出して読むこと)してくれたお陰で恩頼(みたのふゆ)をいただいて早く霊魂が成長したとのことでした。五十日間は交替で音読し続けました。特に霊界物語の天祥地瑞の巻になって兄の霊魂の成長には目覚ましいものがあり、五十日目には三十才の美しい顔になり、何の苦しみもなくなっていました。
死んで五十日間はいつも家にいた通りの事を兄は普段と変わりなくしてましたし、私共が思い出して悲しむと兄の心は灰色のようになり世界が一面大型スクリーンの世界に入った様に悲しみの心になっていました。ビックリして生きている人間は死者を知らない内に苦しめたり悲しくしていることに気付かされました。それ以後できるだけ楽しいことを思い明るく努めました。
《三途の川》
 いよいよ五十日の前日になり、いつものように夢の中で私に、「明日いよいよこの川を渡って向こう側へ行かねばならぬ、上流を渡るか中流か下流にすべきか、どこを渡った方がいいと思うか」と尋ねられました。私は判らないので、美しく済んだ小川に自分の足を浸してみると温水だったのでびっくりしました。丁度十月でしたからもう水は冷たい筈と思っていたので余計驚いたのです。「こんなに気持ちのいい川ならどこでも好きなところを渡れば」と答えました。
 それから四~五日兄が夢に出てこなくなり、不思議なもので毎日会っていた兄に合わなくなると心配になり気にかかっていました。
《霊 国》
 五日目に見知らぬ大きな石作りの御神殿のある立派な家に兄がいました。私に「よく来てくれた」と言ってくれましたが、何だか少し疲れている様子でした。  病死した兄なので、また病気が再発したのかと思って心配すると、兄は「現界と違ってこちら霊界の空気は少し違っていて慣れるまで、高山病のように少し動くと疲れる」 と言いました。
 十畳位の部屋の隅を見るとタンスの前にハンガーの付いたまま、愛用していた洋服が一杯山のように積んでありました。私はもう感心するばかりでした。たしか、遺骸は焼かれて骨まで置いていったのに誠に不思議なことだと思いました。
《霊界の兄へ紋付を送る》
 兄が「あわてて紋付をもってくるのを忘れたので明日届けてくれ」と言われましたので、「はい」と返事して目が覚め、どうしたら届けられるのか実際困りました。母に相談すると、いとも明快にそれはご先祖を祀っているお宮の前に紋付を置いて。想念(心の思い)で送ればよいと申しました。 早速そのようにしましたが届いたのかどうか不安に思っていましたが、翌日名古屋の知人から「紋付を来て兄さんが挨拶にきてくれた夢を見た」と電話があり、届いたことを確信しました。
《死後も同じ父》  また、父が四年前に急死しました時も、父の霊が出てきて「五十日間は三度三度の食事をいつも通り準備して欲しい」と言われ、亡くなった寂しさより忙しい思いをしました。  弔問の来客で忙しい私はお昼になっても父の霊前への供膳の用意ができない時パンをビニール袋ごと供えて父に叱られました。「ビニール袋とかビールの栓のしてあるのは食べられない」と言われ、手がかかるなあという思いがあります。量が少ないとお腹がひもじいと言われたり、夜は晩酌で熱燗にしてくれと言われたりです。
 皆さん、とにかく生きている通りに五十日間はしてあげないと、亡くなった人は満足しないという事です。私は死んだ父の思いがよくわかるので、私は一番親孝行者だと、今も死んだ父に自負しています。

 
第16話 「教主様のお写真より 金色の神様が現れる」 山本文子  

 昭和五十五年の暮れの事です。故重成カネ伯母の体験談です。
 孫が十五才の時、左の脇腹に握りこぶし大の固まりが出来、痛くて苦しんでいました。 折り悪しく暮れで家業の菓子製造の一番忙しい頃であり、病院も休みに入り困っておりました。家内中のものは忙しくて、その子をカネの伯母が見てやっていました。あまり痛い痛いと泣くので伯母は困り、み手代お取次を伯父の故宮崎正に頼もうと連絡しましたが留守だったので、母の松本松子にも連絡しましたが、連絡が取れず、仕方なく伯母はみ手代を持ってなかったが、とっさに『大本祝詞』を半紙に巻いて、その孫をお取次しました。
 伯母は、お取次は初めてで必死で目をつぶったまま神様にお願いをしていたので分からなかったそうですが、お取次を受けいる孫が「おばあちゃんが祝詞をあげていると高松塚古墳の写真のような頭の格好をした金色の小さな女の神様と小さい男の神様が、三代教主様のお写真と日出磨尊師様のお写真から出てきて、男の神様が如意棒のようなもので、僕の左脇腹の固まりをたたくと、乞食の姿をした汚い男が飛び出し、出口王仁三郎聖師様のお写真がかかっている方に、その写真を取り落そうとよじ登って行くのをすごい力でつかまえて、汚い男を軽々とひっかかえて、部屋にある火鉢に放り込み燃やしてしまった。 そして、その灰を箱に入れて女の神様にお渡しすると、再び、お写真に二人共に入ってしまった。  僕はビックリしたので、御神前の方を見ると家の立松がすごーく大きな松林に見えて、神様の社も大変立派に見えた。 目が変なのかな思っていると、おばあちゃんのお取次が終わり、左脇腹の固まりもすっかり消えて治っていました。本当に不思議な出来事だった」と孫は伯母に話したそうです。

 
第17話 「心肺停止で霊体験」 山本文子  

 平成八年二月一日母松本松子の発葬式を終え来客の皆様がほとんど帰られた夕方、弔問名簿を片手にした時、意識が丁度テレビの画面がスート消えてゆくような感覚でなくなりました。主人の声で「文子が倒れた、おかしい、心臓が止まっている、救急車呼んでくれ」まわりの親類の人たちの声も「えっ、今まで元気にしていたのに疲れで気を失っているだけじゃない」主人の声「違う息もしていない」と叫ぶ声が聞こえていました。
 一~二分後消防士の信徒様が私に心臓マッサージをしてくれ、主人は口から酸素を送ってくれるのが分かりましたが、当人の私はなんだか夢うつつの気分で、苦しくもなく心臓停止の感覚もありませんでした。
 間もなく、救急車が来て私をタンカに載せ玄関で急角度に運びだした時、頭がタンカより外に出ていた為、強く玄関のタイル壁にぶつけられました。
 その時、主人の姉が「危ない」と大声で言ってくれました。私も「痛いじゃないの物でないのだから、もっと丁寧に扱ってくれればいいのに…」と心中思ってました。救急車中ではペコペコという心臓マッサージの音が絶えず聞こえ、主人の励ましの声も聞こえましたし、車外に信徒様が立っているのがなぜか分かりました。(普通は心臓停止の状態ですから分からない筈ですが)そして、後日義姉に聞きましたら、声では出さず心で思ったとのことでしたが、当人の私は大声で心の声を聞いていたのです。豊橋市民病院では午後五時半頃で夜間交代の為に医師が多人数いて応急手当が良く、電気ショック二~三回で「心臓が動き出した」との声が聞こえました。
 しかし、脳への負担を少なくするために低体温療法がとられ、注射でまる二日間眠っており(この間、記憶全然なし)身体も氷で冷却されていました。 二月三日節分大祭終了後長生殿へのご祈願により眠りから覚めました。しかし、大きな不整脈が続き、いつ死ぬか分からない状態でいつも主人が横に昼夜通しで側にいて介護し、絶えずお取次ぎをしてくれました。意識が回復しても気管には人口呼吸器が取り付けられていました。痰取り吸引されていました。吸われるために身体がのけぞる位辛く、苦しいものでした。あまりの苦しさに無我夢中で人口呼吸器をはずし、主人が気がついて大騒ぎになり、再び器具をつける施術をしなければという事になりましたが、主人が私の苦しむ姿を見ていて血液中の酸素が一定数値であればつけなくてもいいのでは交渉してくれ、検査結果、再びつけなくてもよくなり、あの苦しみから解放され、やれやれでした。低体温療法の為、風邪を引きましたが、日ごとに身体が回復し次々と症状の軽い部屋へとベッドが廻され運ばれて六日目には集中治療室の四人部屋に移されました。
 左隣には、首を骨折した男性で私に「助けてくれ 助けてくれ」と頼んでばかりで、向かいの二人の女性は意識不明でした。
 私は、主人が、集中治療室の中にいて「みて代お取次」とご祈願、その上お松とお土の煎じたのを毎日持って来てくれ、寒いので毛布を掛けていました。(こんな事は許されないのですが、病院の医師も看護婦の方もすぐ死ぬと思っていた為か好きなようにさせてくれました。)
 そして、八日目にはすごい回復力で管も外してもらい、一人で点滴をもってお手洗いに通えるまでになりました。まわりの入院している人達も、医師も看護婦の方々も一人として声をかけてくれず、異様なものを見るような視線で見つめるばかりです。病院は一分毎に映しているテレビカメラ二台の内一台は、私ばかりずっーと二十四時間映している事を付き添いの方の話しで分かりました。私だけ、祝詞奏上したりお取次ぎをしたりしているので病院側として不思議な所作を監視していたのでしょう。
 入院中四代教主出口聖子様、出口京太郎様はじめ長生殿へのご祈願申込みや、分苑信徒の皆様はじめ家族一同の必死の祈願により心肺停止した私が再び後遺症も無く十日間の集中治療室での入院後、退院をして自宅で百日間静養、その後社会復帰できました。
日出磨尊師様の生きがいの本に「死んでみないと死んだ人の気持ちが分からない~」と、ありますが、本当にそうだと思います。 救急車で運ばれる時に壁に頭をぶつけられたと医師に話しましたら、心臓停止の状態では分からない筈ですし、救急隊員の人達はそんなミスを犯す筈がないと言われましたが気が付くと、私の頭には大きなタンコブがありました。医師も看護婦さんも驚いていました。
 皆さま、お葬式の時に、心で思った事はすべて故人に声になって聞こえる事を知って下さい。心の中で思った事はすべて故人に届いたわたしの実体験をお話しさせて頂きました。
 倒れてより今年で九年目を迎えました。
 市民病院では一ケ月、長くても一年目には死んで病院に来ると断言されましたとおり、退院一ケ月に心臓が苦しくなり再度病院に行きましたが、先生を待っている数時間の間にすっかり元気になり帰ってきました。
 このように死に目に何度もあいましたが大神様の大変なご守護を頂き現在も元気にご神業に励ましていただいております。

 
第18話 「お茶人」 山本文子  

私が三代様にご面会させて頂いたときの事です。
 三代様は「皆、大本の信者さんは水を粗末にし過ぎている。私が皆に代わって神様にお詫びさして頂いている。お水は国祖大神様の血液やでなぁ!」とおっしゃられました。その時、故伊藤よしゑさまに向かい「お茶人さんやなぁ」とお声を掛けられました。
 三代様は茶道の先生がいても決してお茶人さんなどと誉められた事はありませんでしたので、どうしてかなあと思い故伊藤よしゑさまを尋ねました。
 故伊藤様は「私はお茶椀等洗った水は溜めて植木にやっています」と、答えられたのには、教主様は何でもご存知という驚きと、故伊藤様の生活態度の立派さに感心致しました。  
 昔からの故事
 「水を粗末にする人は手足の痛い病気になる」と、いましめられたのを記憶しています。
 私どもも故伊藤よしゑ様にならって日常生活を改めてお水を大切にして行きたく思います

 
第19話 「病気平癒祈願祝詞はすごい」 山本文子  

 退院後、自宅療養をしていた時の事です。分苑の月次祭で病気平癒祈願祝詞を奏上して下さっている時、二階のベッドで寝ておりましたら、御神 前から涼風が吹いてきて身体を通り抜けるように感じました。すると、今まで苦しかった容態が楽になりました。
 後でご祈願をして下さっている人に時間をお聞きしましたら、奏上して下さっている時間と涼風を感じたのと同時刻でした。本当に神さまがお聞 き届けて下さっているのがはっきりと分かり、すごい御神徳をいただく事が分かりました。
 皆さん安易に病気平癒祈願を出されてはいませんか。凄いお陰を頂いているのです。

 
第20話 「一番感心する人のお取次ぎ」 山本文子  

 ある信徒様のことです。この方のお取次ぎをさせて頂きますと、即効で病気が治ったり、気分が良くなられたりで、いつも感心させられます。私はどの方にも同じ様にお取り次ぎをさせて頂いておりますのに、すぐお陰を頂く方と頂けない方がいます。この差はなぜだろうと思い、良くお陰を頂かれるこの方の信仰態度を見てみますと、神様を絶対的に信頼されていますし、神様の事はすべての事において最優先し、月次祭の神饌物も季節ものの一番良い品をお供えされています。神床も二間床で家の中心に作られております。そして、お取次ぎにより私が内流を頂いて注意したことはすぐ実践されています。苦労されているのにとても素直な性格です。
 こういう人がお陰を良く頂かれるタイプだと思います。世の中こんな方ばかりでしたらお取次ぎも楽しいです。 

 
第21話 「印象の深いお取次」 山本文子  

今までの数あるご祈願の中で、印象の深いお取次ぎの一つをご紹介します。
 ある信徒様のご子息の事です。二十七歳の時突然頭が割れそうになり、入院され、精密検査の結果、脳に悪性腫瘍があり、手術成功率は一~二パーセントとのことで、「どうぞ、助けてください」というご祈願の依頼でした。 本人からも電話があり、「今までの人生で何の楽しみもまだ知らないので、これで死にたくない、どうぞ助けてください、もし助かったら何でも言うことを聞きます、お願いします!助けてください!」と長時間にわたる泣きながらの願いでした。それで私はすぐにご祈願をはじめ、毎日必死にご祈願をしました。手術日を迎え、十数時間に及ぶ大手術と言われていました。私は手術時間中、必死にご祈願をさせていただきました。もちろんご両親も、手術室の廊下で祝詞奏上をしていました。手術開始から六時間経過のとき、突然手術室のランプが消えたので、ダメだったとご両親は一瞬覚悟されたそうですが、執刀医が出てこられて、「手術は大成功でした。驚いたことには、昨日の検査の時は腫瘍がドロドロで、手術してもダメだと思っていましたが、今日頭を開いてみると、なんとイボのように腫瘍が固まっていて、そこを切り取っただけで、こんな不思議な手術は初めてでした」と言われたそうで、執刀医のお名前は私と同じ苗字の山本先生という事でした。 ご両親より電話で「ありがたい、うれしい うれしい」と感謝されました。手術の日より、二ケ月も経ったある日のこと、私は神様からの内流で、「この方がまだお礼参りに来ていない」とのことにてびっくりして電話でお聞きしました。すると、「何日も入院で会社を休んだので今は出勤しています」ということでした。退院後、一番先に神様にお礼参りに行ってくださいと固くお約束していましたし、本人たちも、必ず行かせて頂きますという返事でしたから、行かれたたものとばかり思っておりました。私も毎日多数のご祈願のため、この方のことはすっかり念頭になかったのですが、神様からのお知らせにより気付きました。その方に「神様との約束は必ず守って下さい。守らなければ、次のご祈願の時は聞いて下さらないと思いますよ」と強く申しました。その時に、本人は二か月前とは全く違って、「こんな寒い日にお礼参りに行けという神様はひどい神様ですよね」と言われ、私は「行くか行かないかはあなたのご自由です」と答えました。その数日後、何年振りの大雪の日に親子揃って御礼参拝に行かれたとお電話を頂きました。この方が退院されたころは、珍しく小春日和の暖かい日が続いておりました。もっと退院後すぐにお礼参りに行けば、暖かい日に行けたものを、と思いました。
 神様は、約束は必ず守って下さいますが、人間は、心変わりがあるという事を痛感し、私はこのお取次を通じて、人間の心の本質を悟らせて頂い た、印象深いお取次でした。

 
第22話 「煎じ松の効果はすばらしい」 山本文子  

二度目の入院のことです。体力が完全に回復してない頃から、ご祈願とお取次ぎの回数が段々と増え、心肺停止より復帰してからと丁度一年後のある朝、突然呼吸停止になり、隣に寝ていた主人が、私の異変に気付き、すぐ救急車を呼んでくれました。息ができない苦しい中「分苑の神の家を建てるまでは、私は死ねないのや」と心で叫んだ時、息が出きるようになりました。
 意識がもうろうとしていましたが、病院到着の頃、医師の呼びかけに何とか答える事が出来ました。
 一日個室で酸素吸入していましたが、一年前の心肺停止カルテにより、そのまま検査入院となりました。
 重症患者扱いで、あらゆる検査をしましたが、発作原因不明のままでした。しかし、強い心臓の薬は毎日飲んでいました。入院中、主人の届けて下さるお松を煎じたお茶を湯呑一杯でも飲むと尿検査機械での数値データーが、すこぶる良くなることを発見し、薬害がなくなるので毎日嬉しくて飲んでいましたら一週間で退院出来ました。九年たった今日、元気に過ごしております。
 もちろん、毎日煎じ松にスプーン一杯のお土を入れ、松炭も飲んでますが、病院の薬は全然飲んでおりません。    
「聖師様お歌」
  白銀も黄金も玉もかずならず
          身のすこやかに勝るものなき

 
第23話 「言霊武道『和良久』で体力回復」 山本文子  

私は生まれつき、霊を感じる体質です。幼少から母の宣教活動で、信徒様の家々にあずけられていましたが、どこの家に入って も光が射してくるところがご神前で、迷わず玄関からご神前に直行しておりました。しかし、人形をお祀りしている家の、置物の人形の目が動いたり、そこの家にいる霊が見えたりと、霊を感じない人にはわからない辛さがありました。学校へ通っている時も講堂で母親を亡くした友達が隣に座ったとたんに、亡くなった母親が、私に「助けて~」とのりうつった瞬間その場で給食を吐いてしまい、先生にひどく叱られたことがあります。友達は、お腹が痛いとか、頭が痛くなると、私と手をつなげば治ることを知っていたので、友達は多人数いましたが、私自身は健康体なのに、いつももその友達の体の不調を受けて、具合が悪い時が多かったのですが、父が元気印でしたから私が霊を感じて発熱していても、学校を休むことは許されず、毎日毎日辛い日々でした。
 しかし、宣伝使を拝命し、みてしろお取次ぎを始めますと、神様からの内流で、他の人よりも早いスピードでお取次ぎが出来ることが分かりました。お取次ぎをしていると、どんな身体の悪い未信徒様よりも、熱心な信徒様が私のそばに来るだけで、その方の「因縁・めぐり」を神様が救おうとされますので、私は受ける霊の量が多く、苦しんでいる時間が長いという事がわかりました 。分苑以外の方からのお取次依頼も増え、一日八時間くらいのお取次が何年も続き、ついに心臓を悪くし、とうとう心肺停止となり入院しました。退院後、お取次ぎは主人や、分苑信徒宣伝使の方に分担していただいておりましたが、霊を受ける体質はますます強くなり、寝ていても、誰かが私にご祈願をと思われるだけで身体が苦しいのです。もちろんお取次ぎをすれば回復しますが、近年、その受ける量が格段に多くなり、どーっと疲れが残るようになりした。
 ある日、前田比良聖先生のご指導されている、言霊武道『和良久』に出会って早速、分苑に出稽古に来ていただくようになり、初めてから一年十か月になりました。気が付くと、始める前より体力が回復し、お取次ぎをした後の虚脱感が早く治ることに気づきました。
 私が倒れてより、大変ご心配くださった四代教主様がお導きくださったと感謝いたしております。
 どうぞ、お取次で霊を受ける方は、是非、『和良久』をされることをお奨めします。 『和良久』は四代教主様が御命名されました。

 
第24話 「死を覚悟して」 山本文子  

平成二十七年七月八日のことです。日ごろから心臓の調子が悪く。ペースメーカーになってもほとんど機械で信号送りやっと動いている状態が続いておりました。
 しかし「開祖様沓島ごもり世界平和記念百十周年、沓島冠島記念祭典」に名指しで参拝するように四月朔日付で案内を頂きました。今まで参拝できていない人は必ず参拝するようにとのことで、その日から自信はなかったですが、潔斎を始めました。
 いよいよ七月八日に梅松苑に行きましたが、案じた通りその日は一睡もできず、心臓はひどい不整脈で本部で用意されたマイクロバスにも乗れず、主人の自家用車で現地に行きました。道を探しながら行き、集合時間にぎりぎり間に合いましたが、もうこれで生きてこの港に帰って来れないと死を覚悟しました。
 船乗り場までの桟橋が、遠く感じて主人に付き添われてやっと船に乗った時に、海が非常に穏やかで、沓島の方から海風がサーと吹いてきました。途端に心臓が自力で動くようになり楽になりました。これで助けて頂いたと思いました。
 冠島まで思ったより早く着きました。老人島神社まで、大きな石で足元も悪く、距離もあるので、船に残ろうと思っていましたが、お世話係の先生に「ちょっとでも行きましょう」と声をかけて頂き、全く自信がなかったのですが、行けるとこまで行って引き返そうと思っていました。ゆっくり歩いて何とか着くことが出来ました。
 それでもまだ祭典は始まってなく、無事祭典にお参りできました。だんだん元気になってきて、疲れるどころか復路は皆と同じように歩いて船まで行けました。沓島にも無事上陸でき、また宣伝使代表として玉串奉奠もさせて頂きました。
 行きも帰りも海が穏やかで、帰りは行きよりもビックリするくらい元気で帰ることが出来ました。行きは抱えられるようにして歩いて船着き場に行っていましたので、主人が迎えにきてくれた時に大変驚いていました。
 沓島はあきらめていましたが、無事参拝できて、開祖様の御守護を大変身に染みて感じさせて頂きました。
 分苑代表として行けましたので、松香分苑はこれで大丈夫だと思いました。

 
第25話 「大難を小難に小難を無難にして下さる神様」 西宮市 TT様  

 大本様との出会いは。昭和の事です。松香分苑分の初の一番の信者として主人が信仰に入らせて頂きました。
 私は本当に無信心で前の松本分苑長様が毎月月参りに来られますが、本当に知らん顔でした。
 或る日、私は朝からとても気分が悪く食事も喉を通らない有様でした。店の子に背中をさすってもらったり、胸の鳩尾ら辺が大層痛く、特に足はとても痛くて金槌で叩いても痛みが取れない状態でした。
 夜、松本先生がお祭りをして頂きましが私は神様にもお参りもせずに店に座って居りました。先生がお帰りの時に、私に優しく声をかけられ、「今日は 奥様は大分お気分が悪く食事も出来ませんでしたでしょう。この方は暑いところで亡くなられた方で、ひどい死に方やね・・・私が帰ってすぐにお祈りします。きっと奥様は少ししたら気分が良くなりますよ・・・」と帰られました。私は何の事か少しも分からずただ気分が悪いだけは変わりませんでした。
 少しすると電話があり、私の又いとこが自動車事故で亡くなり((南方のコロンビア)明日が四十九日だからお参りして呉と言う電話でした。まもなく先生がお帰りになられた時間と共に私の気分もすっかり良くなり食事をあわてて頂きました。後日私の痛い所と又イトコの自動車事故にあったひどい状態の所が一致してました。もうすっかり驚いて以後何だかこわい神様だと思いました。
 でもその時以後も少し神様を拝まして頂く程度でした。所が、六年前に喉の甲状腺に、“ハレモノ”が出来、その横に癌が出来大変な病気でした。神様のお陰で早く治して頂き又、三年後に乳癌になりました。この病気も神様のお蔭で早く気付かし頂きその上関西一の先生に執刀して頂きました。
 その後店の経営上問題で(メーカーに騙されて)倒産になりかけましたが、ほんの少しの傷で立ち直りました。
 この無信心の私はこれ程に助けて頂きまして大本大神様に、心より感謝感激致しました。
 微々でありますが日々心より神様に感謝いたしまして、より一層に信仰に励まさせて頂きたいと願って居ります。

 
第26話 「度々のお取次で忘れる様に病気が治っていた」 神戸市 IK様  

 神様のご縁を戴きまして初めてのおかげを戴きましたのが昭和十一年、私が喘息を患い苦しんでおりました時、知人に宮崎先生、松本先生を御紹介して戴きました。
 神様や霊の実在など全く知識のない両親や私が、先生方のお取次ぎを受け驚くような体験や目でも見せて戴きました。
 『度々のお取次で忘れる様に病気は治って居りました』
 以来数十年の間には父が胃潰瘍で今度吐血すれば助からないと言われたのですが、お陰を戴きました。
 母も二度の大病をお助け頂き、共に九十一才・八十八才と天寿を全うさせて頂きました。昭和十三年七月五日、関西地方を襲った水害の時は付近一体の家屋が流失埋没する中で少しの被害のみにてお助けを頂きました。
 日々の暮らしの中にも「アッよかったおかげを頂いた」と思うことは度々あります。
 松本先生のお供で朔日参拝をさせて頂いていた頃は、三代様の御面会もしばしばあり、その都度なさる御話は教えでもありお諭しでもあり、いつまでも心に留めさせて頂いて居りますのは何にも勝るお陰と存じて居ります。

 
第27話 「長生殿参拝で歩けるようになった 名古屋市 OT様  

 信号が青から黄に変わったとたんバスが急発進しました。前の信号が赤になる前に渡ろうとしたのです。
 私はバスに乗ったばかりで腰掛ようとした時、突然前から後ろの方へ飛ばされました。身体中をあちらこちらにいやという程強く叩きつけられたのです。すぐに救急車で病院に運ばれそのまま入院となりました。
 医者には「もう一生左足は曲げることは出来ないだろう」と言われました。約四か月後に退院しましたが足は曲がらず、痛みもひどかったのです。事故にあってから一年後に綾部の長生殿に参拝に行きました。杖と友人に支えられて、やっとの思いで参拝しました。家に帰ると急に足の痛みもやわらぎ大分歩けるようになりました。
 それから三ヵ月程して再度参拝に行きましたが杖もなく何とか歩けるようになりました。帰って数日すると足の具合が急に良くなって、痛みもほとんどとれ、大分曲げられるようになりました。長生殿の参拝で医者が「治らない」と言われた私ですが、今では一人で階段も登れるし、足も良く曲げられるようにならせて頂きました。

 
第28話 「無事帰ってきた娘(一才八か月)四キロ先の山中で発見‼」 豊橋市 KF様  

 今から約三年前大変なご神徳を頂きましたが、あの頃のことが目に浮かび涙が出てきて書きたくありませんでしたが、これを書くことであの頃、私たちがお世話になった方々が読むかもしれないと思い、筆をとらせて頂きました。
 大神様、日出磨尊師様はもちろんのこと感謝とお詫びの気持ちで一杯の事を伝えたいと思います。
 平成二年一月一日私達家族四人は綾部本部参拝の為、松香館二階の大広間の隣に宿泊しました。翌日主人と共に祭式講習を見学していましたが、午前十時頃、子供二人と私は部屋に居りトランプなどで遊んでいた時、一才八か月の長女がふとした間に部屋からいなくなりました。外は雨も降っているし出て行かないと思いました。建物をアチラコチラと探しましたがどこにもいません。玄関の靴を見て「ハッ」としました。
 先ほど長女仁子と同じ年恰好の子の家族が玄関で靴を脱いでいましたが、小さい子の靴だけが、ありません。その家族連れがぬいでいた時、この靴うちの子なら“すぐに履いていく”と思い「子供の届かない靴箱に入れたいなぁ」と主人に言っていました。もしやと思いその部屋を訪ねるとやはり皆さん部屋に居られました。
 ざっと、みろく殿と商店街を捜しましたがいません。受付の方に尋ねると“苑内にいるんじゃないですか”と言われ、とにかく祭式を見学している主人を呼び、主人は車で外を、私は捜しながらみろく殿の前へ行き大神様にお願い致しまして「後は日出磨尊師様しかいない。」と思い緑寿館の廊下の前まで行き、住所、名前、年齢、服装を二、三回口に出して言ったのか心中強く言ったのか覚えていませんが、「どうか早く無事に見つかりますように」とお願い致しまして、“ぐずぐずしていれば見つからなくなる”と思い再び受付に行き、警察に連絡し、本部、警察の方々に捜して頂く事になりました。 
 私は本部の浜谷さんと言う方の車に乗せて頂き、綾部の町の老人ホームの近く、マーケットの中など捜している頃、日出磨尊師様が「山・山・山」と色紙に書かれたので山の近くに行き、これ以上はいくら子供でも人通りはなく道も細くなるし不安になり、行かないだろうと引き返しました。
 本部、警察の方々もパトカーで町中放送し捜して下さいました。結局見つからず本部へ帰り暫くして「見つかったらしい」と連絡を受けパトカーで保護され無事、娘は帰って来ました。発見現場は四キロメートル先の火葬場の近くで、それ以上行くと全く分からないと言う所。ラジオでも放送して下さりそれを聞いていた藤原さんと言う方が、わざわざ探しに行き見つけて下さいました。大神様、日出磨尊師様の大加護のもと、もしこの藤原さんと言う方が居られなかったら仁子は無事に見つかりませんでした。
 今もテレビでよく子供が行方不明になったとのニュースを聞くたび、あの時の事が思い出されます。
 私の知らない、いろんな方々にご迷惑をかけ一緒に捜して頂いた事。私の頭に焼き付いて居り、大神様、日出磨尊師様はもちろん皆様には感謝とお侘びの気持ちで一杯でございます。
 あれから四年、娘は病気もしなくなり順調に成長して居ります。
 娘が大きくなり、これを見て、大神様、日出磨先生、藤原さんと言う方、他多くの人達に助けて頂いたことを知り自分を大事にして、私自身ももちろんそうですが、少しでも神様の御用に使って頂ける人間に、また知らない方々にも役に立たして頂きたいとの願いと祈りをこめ書かしていただきました。
 どうも本当にありがとうございました。

 
第29話 「一億円のご神徳」西宮市 TI様  

 七年ほど前より私自身原因もなく身体が動きにくい日々が続きました。亀岡、綾部、分苑と参拝を続けておりますある年、カラつゆで二ヵ月あまり猛暑の後大雨が降り続き、カラつゆと大雨が原因で近辺の木々と言わず私共の庭の植木、フェンスが倒れ木は傾きと言う惨状に見舞われました。
 後日この惨状にも似た大波乱が私共の家業に襲いかかることとなってしまったのです。
 私共は一流ブランドの女性服店を経営しており、本店が三〇有余年主力取引しております大企業に長年だまされていることが発覚したのです。
 一流企業であるためと、社長幹部と親しいため巧妙な伝票工作が見抜けなかったのです。あまりに毎年高額の請求が参りまして、平成四年度には一億円となり、とても小売りの域を超えた額となります。
 何千万円のうちはもう数字に慣れっこになっており、さして気にもしなかった状況ですが、億を超えていくきわみで目が覚めた様に衝撃を受け、これはバブル崩壊に向かって神様のお気づけだったのだと思います。
 巧妙な手口の伝票を一枚づつ確認し、過去十年間のデーターを出し、三年周期で画策されている状況は見事なものでした。
 全国にある大型店及び老舗と言われる店が次々企業側のものになって行ったのはこの理由かと目をさまされ、かつ恐怖が襲います。
 毎日神様に母と共にお願いをさせて頂き、松本松子先生には必死にご祈願賜りました。
 気づいた時点で大阪弁護士協会、副会長を務められました高名な弁護士に相談致しました居りは、相手が大企業であるため容易に認めては頂けませんでしたが、二度目にお会いするおり、十年間のデーターと伝票持参致した時、一も二もなく「私が出ます。」と申されましたおりの嬉しかったこと。
 しかし、こういう場合交渉の方が早道であり(破産申告が金銭的には無キズで良いのですが)稼業を続けたいとの母の希望にのっとり一年の年月をかけて交渉致しました。
 最終二千万円で弁護士立ち合いのもと契約書を交わし、後くさりのないものとさせて頂きましたのが、教主様分苑歓迎会の二、三日前だったと思います。
 この後、交渉の心労で母が乳ガンの大手術を致しましたが、そのおりも五〇〇名入院患者の持っておりますにもかかわらず、母は瞬時入院執刀と多大なお陰の連続でした。
 こまかい事まで書かせて頂きますと、おかげに枚挙がないという厚いご守護を頂いております。こういったことを経験させて頂き、国祖大神様のご神格、また霊継ぎの式において国祖のご霊系をお継ぎなされました四代教主様のご神格と言うものがようやく私のお腹の中に入って参りました。
 今後とも一生懸命行動をもって大神様におすがり申し、おつくし申し上げたいと存じております。 

 
第30話 「原因不明のゼンゾク」(喉にうろこ状の痕が…お取次・お清めでみるみる良くなる)豊能郡 IH様  

 祖母と母から聞いた話ですが、私が五歳の時原因不明のゼンソクになった事がありました。
 熱があり激しい咳が休みなく出て、何度病院に行っても良くならず、病院での薬や漢方薬、喉に良いからと糸ミミズを飲む等、いろいろ努力はしたものの良くならず、祖母も母もほとほと困り果てていたそうです。
 その症状が五十日ほども続いていたある日、いつものように祖母に連れられ病院からの帰り、当時近所に住んで居られた松本先生(初代松香分苑長)と出会い、世間話をしている時、孫の私が病気で通院していることを話したそうです。
 その時初めて「お取次」をして頂き「氏神様のお使いの蛇を殺しているのでお清めをしたら良い」と言われ、その事を祖母が私に尋ねると「家の裏庭の石垣で蛇を殺した」と言ったそうです。
 その時の私の喉には、うろこ状のロープ痕ができ、たえずゼーゼーと苦しそうにしていたそうですが、松本先生の言われた通り「お取次」「お清め」後、数日でロープ痕もとれ五十日間も続いた症状がみるみる良くなり完治したそうです。
 病院の先生はもちろん、古くより他の神様を信仰した祖父母、母もこの不思議な出来事に大変驚くと共に、この時初めて「大本」を知る事となったのです。この事がきっかけとなり、その後松本先生には幾度となく熱心にご指導して頂き、祖父母、母、数年後には私も入信させて頂く事となりました。

 
第31話 「ご神水を両目につけて視力回復したわが子」徳島市 IH様

 娘、良美が三年程前幼稚園の眼科検診で初めて目が悪い事を知らされました。
 小学一年生入学時の検診で、以前より悪くなっているので専門医の検査を受けるように言われました。
 数カ月後専門医で詳しい検査を受けた結果「この子の目は残念ながら九十九%回復は不可能です、現状維持も困難です。メガネが必要となりますから作って上げて下さい」と言われ同行していた妻はガックリとして帰って来ました。
 子供にも聞いてみると「字がボーッとして小さい字が見えない」と言いますので学校の先生にも前の席に座らせるようお願いもしました。
 母に、この事を話しますと「本部のご神水を目につけて一生懸命お祈りをしなさい」との事で私もお取次をさせて頂いたり、毎月の参拝時にはご神水を頂き両目につけて母も私共もこれ以上悪くならない様にとお祈りをさせて頂きました。
 三か月程参拝させて頂いた頃学校で再び目の検査があり、その結果を聞き私も妻もびっくり致しました。何と幼稚園時、両眼共0.6、小学入学時0,5、専門医による検査で0,5と三人の先生が診察していたにも拘わらず、右目1.0左目1.2 と言うではありませんか、私も妻も最初は数字の間違いだろうと信じられずにいましたが、子供に聞きますと「すごく良く見える」と言うのです。
 わずか三ヶ月前の専門医による検査で医学的に回復は困難ですと、言われた目が回復したのです。
 母も私も本部にすぐ御礼参りをさせて頂いたのはもちろんですが、神様は私共のように疑ぐり深いものでもはっきりと目((数字)でわかる超医学的現象を体験させて頂きました。また普段は何気なく頂いています、万祥殿のご神水にもご神力と大神様のご加護が頂けた事に大変驚くと共に感謝致しました。
 前項のような不思議な縁で大本に入信させて頂き、また数々のご神徳を頂き、大難を小難に、小難を無難にさせて頂くご加護に日々感謝すると共に普段何も出来ていないご神業ご奉仕に家族全員もっともっと頑張らねばと反省するばかりの毎日です。  

 
第32話 「熱湯のはずが冷水に・・・」(神様が頭にかかる瞬間水にして頂く)徳島市 IF様

 昭和六十一年三月頃の出来事です。私は毎朝、お寿司のねた造りの用意をすることが日課でした。毎朝七、八十匹の海老を茹(ゆ)で仕上げるのです。
 その日も海老を茹ではじめ五、六分沸騰して流し場に移すのですが、その時大鍋の底が流し場に引っ掛かって煮え立つ湯と海老が私の頭、顔に波のようにかぶりました。その時「しまった」と思った瞬間熱湯のはずが『冷たい水が頭から顔に流れている』と感じました。
 七、八人の従業員は大変な騒ぎとなり早く医者へ、医者へと急き立てるのですが、私自身異常もなく不思議な位でしたが、皆さんのすすめにより医者に行き、見て頂くと先生は『熱湯とぬるま湯と間違ったのでしょう、熱湯ならこんな筈はない』と信じてくれません、少し塗り薬を頂き家に帰り床につきました。
 その時お土を貼ろうとふっと頭に浮かび、早速お土を顔一面に塗り寝ていますと半時間くらい立った頃に顔に大変な熱が出てきたので手の平を顔のお土の上に当てますと、手が熱くて驚きました。
 外面は異常のない様に見えましたが、内面は大変な火傷をしていたのでしょう。二時間程でその熱も引き水ぶくれすることもありませんでした。
 神様が顔にかかる瞬間に水にして頂くという大変な御神徳を頂きうれしさが一杯でした。回りにいた従業員の皆さんはこんな不思議な事はないと言い、また無信仰な従業員の一人は「神様に助けられたなあー」と唯、驚くばかりでした。至らない私に数々のお救いと御加護により大難を無難にまつりかへて頂き幸福な日々を送らせて頂いております。ありがとうございました。 

 
第33話 「タクシーに跳ねられ車の下敷きに」徳島市 IF様

 昭和四十七年二月十一日の夕方の出来事です。不思議なご神徳を頂きましたので皆様にお話しさせて頂きます
 その日は仕事が定休日で買物から帰る途中横断歩道の信号が青になり通行中、信号無視のタクシーに跳ねられその下敷きになり車の前輪が私の腰の上に乗り掛かった時は「だめだ」と思いました。しかし気が付いてみると不思議と何処も痛みもなく身体も動くので心の中で『神様に助けて頂いた』と思いました。
 運転手さんは、私の姿を見て押しつぶしたと思ったのでしょう足も身体も震えていました。私は「大丈夫です心配ないからね」と慰めて上げました。
 その車で病院へ行きましたが、医者は私の身体を一寸見て「異常はないから帰ってバンソウコウでも貼って家で休んでいれば数日程たてば治る」というほどの外面は軽傷な状態でしたが、実際には後で分かった事ですが、大変な事故で十年後に腰痛のためにレントゲンを掛けますと、医者は「井内さん、あなたはいつ頃腰の骨を折ったかと」尋ねるので事故の事を申しますと「その時腰の骨が折れていたが自然に大変きれいに完治されているからもう心配ないよ」といわれ神様の御神徳と御加護に胸が一杯になりました。
 事故の時に腰が折れている事が分かれば私はどんな大きなショックを受けていただろうと身体が震える思いでした。  神様は医者に不親切に思う程の簡単な言葉で最高の治療をしてくださった事に心から感謝しています。
 養生中は「事故を起こした人は一度も見舞いにも来ず大変不親切な人だ」と思いましたが、その時私の頭の中に人を憎んではいけない、自分の罪穢れの為にこんな状態になったのだと深く反省しますと、それから相手の人の事も思わなくなり心も身体も大変楽になり、医者の言葉通り入院もせず三十日程で仕事にも復帰することが出来ました。
 此の事故を通して、どんな事があっても人を憎んではいけないということが、自分自身を助ける大切な事を神様はおさとし下さいました。ありがとうございました。

 
第34話 「神様の御蔭で子宮癌を克服した私」名古屋市 MM様

 平成四年の冬仕度が始まる十一月二十八日に私は産婦人科へ癌の検診に行きました。
 十二月五日に結果を聞いて、頭がくらみ目が見えなくなりそうになりました。というのは子宮癌の程度を五段階で見たら私の症状は一番重度な五でしたから、国立病院へ行くように言われ、十二月八日診断の結果、すぐに入院と決まり、いろいろ検査をしてから、翌年一月七日子宮癌摘出の手術をしました。入院と同時に不眠症になり睡眠薬を使う様になり薬を飲んでも眠れなかった時 は最高に辛い思いをしました。そんな状態のまどろみの中で三代教主様の夢を見せて頂いたり、四代教主様が夢に現れたりしてくださいました。
 ある夜は亀の背中に載せて頂いた夢を見せて頂き、神様に一生懸命お願いすれば絶対に救って下さると思いました。四月八日に退院しましたが、五月二十四日には制癌剤を注射するために再入院しました。
 手術の時からずっと万祥殿の大神様に病気平癒のご祈願をして頂き「おひねり」 さんも頂きました。神様からお力をいただいて六月十日に退院することが出来ました。六月十二日には念願の松香分苑の月次祭に参拝させて頂き感激しましたが、この日から睡眠剤を飲まないで眠れるように努力しました。それは厳しい戦いでした。九月二十二日まで百日間続きました。ところが九月二十三日の三代様教主様のご命日には完全に睡眠剤無しで眠れるようになりました。こうして、食事も美味しく頂けるようになり体重も増えて目に見えて元のからだの様に元気になって参りました。
 からだが弱っている時はいろいろなことを考え、悪い方悪い方へと考えを持ってゆくことがあります。こんな時に励まし力づけてくれるお道の友を持っていることは幸せです。神様の厚いご守護のもと分苑長はじめ皆々さまのご祈願とお力添えで、これだけの健康を取り戻すことが出来ました。真で神様にお願いすることが、何ものにも勝ることを悟りました。ありがとうございました 。

 
第35話 「他宗教を辞めると命がないと言われて」神戸市 TA様

 私は昭和三十六年に知人に紹介され入信させて頂きました。その当時他宗教に所属しておりましたので「大本」に変更したいことを〇〇教の先生に告げました。すると、「ここの宗教を辞めたら一年以内に命を取るから」と脅迫され、現にその時の妻(先妻)が急に癌になり病院のベットでその○○教の先生が首を絞めに来る、助けてくれ助けてくれと叫びながら悶死したのを目のあたりにした所だったので余計に怖くなり大本には入りたいが辞めると殺されるしで悩んでいました。その時、思い切って松本松子様のおすすめで「大本」につれて行って頂き大本の三代教主出口直日様にご面会させていただきました。
 三代教主様は「大丈夫です、あちらが人間ならこちらも人間です」とおっしゃられました。それで、この時入信をさせて頂きました。その後もまだ不安は消えずにおりましたら、ある日の御面会で、三代教主様が「それほど怖いのでしたら、私がお守りをあげます」とおっしゃられ、出口王仁三郎聖師様の母印入りのお守りを下さいました。それから、大神様をご奉斎させて頂きましたが、毎晩○○教先生のお祈りの時間が来ると守護霊が私を襲ってきて苦しみました。私は大本の神様をお祭りしている部屋にこもり、その時間必死で祝詞をあげて一年が過ぎました。その宗教を辞めてから 一年過ぎましたが、私は生命に別条なく、今、八十八歳ですが大本の信徒として元気に働かせて頂いてます。

 
第36話 「餓鬼道に落ちていた先祖が救われた」神戸市 TA様

 大本に入信(昭和三十六年)して間もなく松本松子様に「商売人は毎月の朔日に神様に御礼参りをすると良い」と言われました。それもそうだと思い、近くの産土(うぶすな)の住吉神社の月次祭に毎月鯛を御供えさせて頂いてましたが、大本(京都府の亀岡市)へも松本様と一緒に朔日参拝を実行しました。
 すると、不思議な事が起こりました。手の指が十本共シビれて、真っ白になるのです。
 亀岡天恩教の食堂でご飯を一膳頂くと一本指がもとに戻るのです。ご飯をたくさん毎月の朔日参拝の折に食堂で頂くのです。恰好が悪いなどと言って居られません。それと、だんだん胃は大丈夫なのか不安になりました。 
 しかし、食べないと指が元に回復しないので松本様にお尋ねしました。
「これは高場家の先祖様の中で地獄の餓鬼道に落ちている人が、あなたが神様の御用(神饌物を提供したり、人型大祓いのお勧め)をするので、一人一人口のない亡者が口を開けてもらいあなたにかかり、やっと食べられるようになって救われていってる」と言われ納得しました。このような事が一年くらい続いたのですが、朔日参りのお陰ですっかり良くなりました。また朔日参拝を始めてから、より商売も繁盛し今では、病気一つせず元気で何よりのご神徳を頂きました。

 
第37話 「網膜剥離になって」神戸市 TA様

 昭和五十三年に突然網膜剥離になりました。兵庫医大に入院する前に大本の三代教主様に御面会させて頂きました。「神様に手術がうまくゆくようにお願いしてあげるから安心して下さい」とのお言葉を頂きました。
 手術後片目を開けると、昼も夜もいつでも三代様が目の前に座っていて下さるのが見えました。夜半に目が覚めてもきちんと座っていて下さるのです。
 不思議な事だなあーと思いつつ、私は隣人も同じ病気で手術しましたが、その人はお医者様の指示通り絶対安静を守っているし、私は寿司業を経営していますのでジーとしていた事がなく、病院でも安静が守れなくタバコを吸ったり、動きすぎて看護婦さんに叱られたりばかりしていました。
 ところが手術後の経過は私がすごく良く、安静しておられた隣人が思わしくなく、不可解だ、変だ変だとお医者様と看護婦さんが言ってました。 三代様が私を守って下さったのだと直感し、今日現在に至りましても、その時の三代様のご守護の広大無辺を思い毎日感謝しております。

 

アニメ 「竜神に乗った少年」
 (著作権は大本松香分苑にあります。商用目的での利用はできません。DVDは天声社で販売しています。)


「竜神に乗った少年」
 第一話「霊界探検」 0~19分
 第二話「天国へのチケット」 19分~46分
第二話の解説(▶をクリックすると表示されます)  

「天国へのチケット」の話は、松香分苑の原点である、初代分苑長松本松子が幼少時代に頂いたお蔭話であり、 又神様の存在を確信し、「神様の御用第一にして、正しい願い事なら、必ず神はこの世にあり、お聞き届け下さいます。」 ことを体験できた話でございます。特に、産土の大神様から次のような言葉を賜りました。
『私は産土の神である。汝の前世の罪は大きくて一生盲目で過ごさねばならん所を国祖大神様が綾の聖地にご降臨されて世人を救世されている。国祖大神様の大愛により、目を開けて頂けた』
この二年後に、国祖の大神様が、綾部の大本にまつられていることを知り、すぐに御礼の為に参拝し、修行を受け入信されました。今の松香分苑の原点となった、ご神徳談でございます。 この話を通じて、大神様の存在とその大愛とお力を知っていただければ幸いでございます。

 

健康講座 by 伴東洋治療院
 尼崎市にある伴東洋治療院の伴吉信院長による東洋医学に基づく健康講座です。


第一回 「五臓の色体表」 2023年4月5日収録
 東洋医学の基本となる五行論に基づく「五臓色体表」を使い、身体活動の24時間と四季のサイクルと五臓の働きの関係 について解説しています。
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