大本松香分苑

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ご神徳談集

初代分苑長、松本松子宣伝使のお蔭話シリーズ
第2話
第2話 松本松子の幼少~15才まで ➀、➁、➂  

➀生まれた三日目に兄が胸の上に飛び降りて
 私は、四国の艮の方向にあたる徳島県鳴門市の里浦で生まれました。  大正四年七月二十八日午前五時に生まれ、小さい時から、なんと申しますか、めぐりが多いと思います。 生まれて三日目に、三番目の兄がコタツ台から右の胸に飛び降り、四十日間も〝ケイレン“が続きもう医者は、 「この子は死んだがよい、助かっても、半身不随か、盲目か、ろうあ者かになるので死んだ方が親孝行だし、 この子の為にもこれが一番よい。」と言いましたが幸か不幸か命はとりとめました。  私が少し大きくなると、母は心配しまして目は見えとるのか、耳は聞こえているか、手足は動くかと大変心配したそうです。 おかげでその頃は手足は動くし目も見えるようであり、母はほっとしたと思います。

⓶小さな刀のさやを抜いて、大口にくわえて恨めしげに、何とも言えんすごい顔してにらんでいる
 私が幼い頃の事ですが、ある部屋に、寝ておりますと、そこに、怖い大きな顔が、四つも五つも出てきまして、 その顔が私をにらんでいるように思えまして、その顔が、畜生道と言うか、青紫の顔をしまして、何とも言えん恨みに 燃えた目で、男とも女とも見分けがつかん、髪はぼさぼさ、血で固まった髪がバラ―と顔にかかって悔しいという顔をして、四~五十センチほどの小さな刀のさやを抜いて、大口くわえて恨めしげに、何とも言えんすごい顔してにらんでおるのが見えるんです。  その顔から大きな手が出てきて、ギュウッと私の首を絞めるんです。 「ああ苦しい!お母さん助けて!助けて!」と自分では声を出しているつもりですが、 母は私が何かにうなされているのだろうか、何か怖い夢を見てるのだろうと私をゆすり起こすのです。 それで、大きな息をついて目が覚める、そうすると、苦しくなって体のどこかが悪くなるのです。

➂医者が「この子は失明しますで・・・」
 私は、先ほど申しました様に生後三日目に兄に胸の上に飛び降りられてから、目が弱視で何かすると目がすぐ悪くなる。 医者が、「この子は、もう失明しますで。」母は、それが苦になって、よく「これは見えるか?これは見えるか?」 と言うて私に聞いていた事を記憶しています。  その頃は食事もおいしくないし、笑ったり、楽しかったりという事は記憶にありません。小さい時から兄達や皆が、 いろんな事をして笑っているのを聞くと、うるさくて自分だけ、六畳のうす暗い部屋にふすまを閉めきって机の前に ジーっと座り、「ああうるさい!何がうれしんやろう」と思っていたことを記憶しています。 そうして、段々大きくなってきましても、食事がまずくて、尋常小学校六年位まで、桃太郎の絵の付いた 小さいコップのようなお茶碗に、ご飯一杯食べるのがやっとのような状態で、学校の校医には、 「この子は、虚弱体質だから体操なんかも余りしないよう、又、遠足に行くにも父兄同伴でなければ行ってもらっては困る」 と言われる様な身体でありました。だから楽しいと思った事は、子供心になかったのです。

 
第3話
第3話 松本松子の幼少~15才まで ➃、➄、➅  

➃学校から通信簿をもって帰ると、母が一番に健康状態を見ます
 家では、他の兄弟より体が弱いので、医者に朝から牛乳を飲ませ、肉を食べさせ、ウナギを食べさせ、鶏肉を食べさせ言われ、 それが嫌で嫌でたまらなかったのです。春先が来ると、兄達は、竹の子やフキを食べてる。それが食べたくて食べたくて。 インゲン豆など、医者は、食べさせてはいけないと言われましたが、毒や言うたら余計食べたい。 だから母がちょっと食卓から離れたら、兄達の竹の子やフキや豆と自分の肉、鶏肉等とそっと交換してもらうのです。   
 すると兄達は、竹の子やフキより肉や、鶏肉、卵などの方が好物で喜んで換えてくれます。  
 学校から通信簿をもって帰ると、母が一番に健康状態を見ます。上の兄達は、学校も休んだ事がない健康な身体で 最高点を取ってくる。
  私はいつも最低健康状態。母は「まあ、この子はこれだけ栄養を摂っているのに最低、 上の兄達はこの子ほどに気をつけてないのに、元気だしなんでこの子はこんなに弱いんだろなあ?」といつも 沈んだ顔してこぼしていました。  
だから、学校はできてもできなくてもそんな事は、とんと無関心で、いくら良い点を取ってきても、大して褒めてもくれない。悪い点とっても叱りもしない・・・と、まあ張り合いのない生活でした。自分もそれに対して、何で私だけ良い点とっても悪い点とっても誰も何も言わないのかなと思っていました。 

➄叔父の夢枕に私の父が「よろしく頼む」と三夜立っ
 目は年中悪い。母は医者からこの子は失明するかも分からないと言われていたので、いつも心配していた。三才位になって心配どおり目が見えなくなってきた。驚いて、県内から県外、四国中の良いという医者は皆行っても、この子の目は明かりを見ることはできないだろうと言われました。
 そんな時、当時私の母の弟が神戸にあるドイツの商館に勤めていました。その叔父の夢枕に私の父が立ったそうです。(父は私が二歳の頃三十九才の若さで他界)父は神主でしたので納棺した時の白い装束を着て叔父の枕もとへ「よろしく頼む」というて三夜立ったそうです。 そういう霊的なことを認めない人であったけれど、鳴門の兄さんが三回も来たという事は兄さんの家に何かあったのではないかと思って、その当時は電話もないので、電報で「何か変わったことはないか」と言ってきました。母や兄は、私の目が悪いけれど、誰かが死んだと言うこともないもんだから(当時は死亡でもなければ知らせなかった。)変わった事はないと返電したそうです。
 その後、すぐ医者が駄目だと言ったので、母は叔父を頼って神戸に行きました。( 当時四国から阪神へ出て来ると言ったら、今で言えばアメリカへ行くよりもっと大変な事だったようです。船に乗って、こちらへ渡ってくるのはよくよくの事でない限りなかったようです。)

➅この子の目が見えるようになったらいり豆に花が咲いたという事ですね!
 叔父は、「よう来た、とりあえず医者に見せてみよう」と言って、当時関西では一流だったと言われた山形と言う眼科へ私を連れて行きましたが、医者は「ああこの子の目はだめだ、とても見えるようにはならんと思うけれど四国から、はるばるうちの病院を頼って来てくれた親の気持ちに対して、しばらく治療を続けてみましょう。 この子の目が見えるようになったらいり豆に花が咲いたと言う事ですな、ぜんぜん視力回復の見込みがないが、まあ明日も来なさい。」と言いました。
 母は夫も死んだ、子供も沢山いる、(私の兄弟は七人おりました。男兄弟五人、女姉妹は三人いたが女が一人早くに死んで二人)七人の子供を残されて何と私は不幸な人間だろうなあ、もう帰って行ってもこの子も連れてとても生きる望みはないから死のうと思って川の淵に立ったそうです。

 
第4話
第4話 松本松子の幼少~15才まで ➆、➇、➈  

⑦神主の姿をした白髪の老人が  自分の死のうとした川のそばへすうっと立った  すると、ぜんぜんだめのはずの目が見えるようんになった‼
 母が私を連れて一緒に自殺しようとした時神主の姿をした白髪の老人が自分の死のうと思った川のそばへ スウ―と立ったんだそうです。すると何やら怖くなってきて死ぬのを忘れて弟の家へ走って帰って、まあこりゃ死ぬなという事かもしれないと考え直したそうです。そして、あくる日に山形さんへ行ったら院長が「この子何を付けましたか、何を飲ませましたか」と聞いたそうですが、「いいえ飲まし付けもしません」というと、「なんと不思議なことがあるもんだ、昨日は、ぜんぜんこの子の目は駄目だ、手術しても駄目であると思ったが、今見たら、この子の目、見えるようになっとる。  
 何と不思議な事があるもんやなあ、だけとこの子の目は所詮良い目になりませんで、まあ見えてもうすうす見える位だから、いつまでもここにおったら、あんたも大変やろから帰ってその村の医者に通わせなさい。」と言われまして、ああそれもそうだ、いつまでも弟の所におってもしょうがない。とりあえず帰る事だと思って重い足を引きずって私を連れて帰ったらしいんです。  それからは私の目は良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。

⑧神様があるのやったら  私の目一つ治してくれんのやろか!
 私の一番上の兄は父の後を次いで神主でしたので人さんが来られたら神様のお話をしておりました。神は全知全能で神は愛・・・私はそばに座って聞いていて不思議に思っておりました。「神様があるのやったら私の目一つ位なおしてくれんのやろか、兄の話は何やら納得の行かん話やなあと思って、そうやお宮に行って毎晩ご祈願してみて、神さんがおるかいないか試して見てからでも遅くないと思った。 あるのやったら目を開けて下さい。 私は生まれて悪いことしたことがないのに何でこんな弱い、他の兄弟は皆元気で、皆学校へ行って、成績も良いのに私だけ何故こんなやろか教えていただこうと考えつきまして、そして3×7=21日ことがあるから二十一日間となりの神様の前へ水で身を清めて行きました。その時は冬で寒かったんですが、もう死のうと思っている位ですから、寒いという事も忘れていました。この井戸端で死んでも良いと思いまして水をかぶって、初めは冷たいけど段々、感覚がなくなる位まで水をかぶって、お宮へ行きました。

➈天津祝詞を奏上しお願いすると お宮の大きな錠がトーンと開いた
 お宮には三十センチ位ある、さびた大きな海老錠が、かかっているんです。その中へ行こうとしたらその錠を外さなくては入れません。引けど押せど錆びついて錠がはずれません、そうだ神さんにお祈りして、神さんがもしこのお宮の中にお入れ下さるのなら、この海老錠を開けてください。そうお願いして、天津祝詞を奏上して、海老錠を力強く上へつき上げ、三回位突き上げると開きました。入っても良いという事だ。ああ神さんは入れてやるぞというお許しが出たんだと思うと、涙がこぼれてきました。 
 母は夫も死んだ、子供も沢山いる、(私の兄弟は七人おりました。男兄弟五人、女姉妹は三人いたが女が一人早くに死んで二人)七人の子供を残されて何と私は不幸な人間だろうなあ、もう帰って行ってもこの子も連れてとても生きる望みはないから死のうと思って川の淵に立ったそうです。
 お宮に入らせて頂き、御祈願をする時に、太鼓を打ちながら祝詞を上げるその太鼓の前よりもっと前へ行って、できるだけ神様に近づいて祈りたいと思いまして、手さぐりで本殿の真下へ行って夜の十二時から朝の三時まで座りましょうと、腹に決めました。
 そしたら誰も来ない静かなもので、村から大分かけ離れたところにお宮がありますので、犬の遠吠えと松風のザワザワ言う音しか聞こえません。そうするとものすごい寒気が身に迫ってくるのですが、祝詞を上げますと、なんとも言えない春の様な、なごやかな空気が私の四辺を取り巻いて来ます そうして、あっちでパーンこっちでパーンと竹刀か何かで叩く様な大きな音がするんです。

 
第5話
第5話 松本松子の幼少~15才まで ➉、⑪、⑫

⑩何故 私だけがこのような目に会うのか知らせてほしい
 ところが私は目が明けて欲しい、目が見えないのだから目を開けたいという事が一心ですから、神様がもしこの世に有って、そんな全知全能の神様であれば、私は生まれて悪い事をした事がないのに何故、こんなに苦しい目に合わなければいけないかと思いましてどうか神様、袋に入れて叩かれるようで、なんにもわかりません。
 何と不思議な事があるもんやなあ、だけとこの子の目は所詮良い目になりませんで、まあ見えてもうすうす見える位だから、いつまでもここにおったら、あんたも大変やろから帰ってその村の医者に通わせなさい。」と言われまして、ああそれもそうだ、いつまでも弟の所におってもしょうがない。とりあえず帰る事だと思って重い足を引きずって私を連れて帰ったらしいんです。  それからは私の目は良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。
 神様というすべてを愛される様な大きな力があるのでしたら私に知らせてください。お前はこういう事をしたからこうなったのだと言われたら、もうそら納得します。
 そうして本当に神様がいらっしゃるのならば、目に物を見せて下さい。と言って祈りました。
 そうして「もし、この目を開けて下さったら、もう神様のおぼしめしに叶う様な事を一生懸命にさせて頂きます。」と三時間も座って祈るんだから神様の気に入るようなことばっかりを申しました。

⑪お前は村上藩士の一番悪い事した身魂が生まれかわっている
 毎夜毎夜このように言って祈り、十五・十六日位した頃に、その御殿の少し下がった床上の二メール位上から神様の声の様に私の心に響いてきたのは、「お前は村上(私方の在所は宮崎と言いましたが)源氏の一番悪い事をした身魂が生まれ変っておる。そうしてその身魂だから一生お前は失明で終わる因縁をもっとる。」という事でした。
 ああそれやったらしょうがない、私は父の墓場へ行って死にます。もう神様に目を開けてくれ、開けてくれいうの止めます。何もかも、もう人生十五才で終わりと諦めます。
 どうも神様長い間、勝手な事を毎晩来てお願いしてこの御殿を汚した罪をお許し下さいませ、 しかし、二十一日の御祈願と神様に誓った言葉は実行せねばならん、後五日や一週間余計生きたところで大差はないと思い、二十一日まで毎晩ここへ来て座らせて頂きます事をお許し下さいませと申し上げた。
 それから、目を開けて欲しいとも健康になりたいとも何も考えずに、残りの六日は無我無心の境地で祈りました。

⑫一番よい着物をつけて さあ死にましょう
 そうして、いよいよ二十一日の日になりました。ああもうこれで、目が見えたら母親にも、最期のお別れで顔も見たいし、兄弟の顔も、見納めに見て玄関を出たいが、悲しいかな目が見えない。しかし玄関に立った時に何とも言えないほど生まれた家に愛着がわきました。
 お宮に入らせて頂き、御祈願をする時に、太鼓を打ちながら祝詞を上げるその太鼓の前よりもっと前へ行って、できるだけ神様に近づいて祈りたいと思いまして、手さぐりで本殿の真下へ行って夜の十二時から朝の三時まで座りましょうと、腹に決めました。
 死のうとは思っているのですが、ああここの敷居をまたげるのもこれが最後か、非常に指の感覚が鋭くなっていますから、自分に作ってくれた着物の中で一番よい着物を手探りで探しこれを身に着けて、さあこれで死のうとその日は、白い着物や袴を止めました。
 そうして風の音と共に、戸を開け、家の者に分からない様に松風の音と共に戸を閉めました。
 自分の家が遠のく程、これで、この家ともお別れだなあと思いつつ、その産土神社へ行くのに一足づつ消えていくという感じで行きました。
 例のごとく錠が開きます。お願いしていたらその日は感謝の気持ち一杯で「仕方がない。自分はそれだけの運命の元に生まれているんだ」と、すべてに覚悟を決めて御宮に座りまして、天津祝詞が最後の、最後だと思って上げました。
 神様よくもこんな深いめぐりを持った私をこうやって二十一日間座らせて下さいましてありがとうございました。また、親兄弟にも心の弱い至らん私が御面倒掛けまして相すみませんでしたと感謝の気持ちを込めて我が家の方へ御礼申しました。

 
第6話
第6話 松本松子の幼少~15才まで ⑬、⑭

⑬大砲でもなった様な大きな音が ドカーンとしたと同時に光の海になったんです
 そうしていよいよ祝詞が終わりに近づいた時、何かその御宮の扉がギィーと開いたような音がするんです。
 腹の中で自分はこの生という執着は、人間は強いもんだなあ、もう死のうと最後の祝詞だと思っているのに、まだ愚かなもんで奇跡を求めているんだろうか、こうやって扉が開いた様な感じがするというのは、言い換えれば生への執着が強いな、何とか奇跡を求めているのだなあと思いつつ祝詞を上げました。 
 そうして本当に神様がいらっしゃるのならば、目に物を見せて下さい。と言って祈りました。
 そうすると、恐み恐み(かしこみかしこみ)と申し上げたら大砲でもなった様な大きな音がドカーンとしたと同時に、光の海になったんです。
 そうしてこの寒い場所にストーブをがんがん焚いたかのように皮膚がピリピリする程の熱を感じてまあ思わず死のうと思っておるから何が起きても恐いことはないんですけど、あまりにも音が大きいからドキーンとしました。そうしたら黄金の光につつまれました。目が見えないんだけども、見えない目に黄金の光になったことが分かったんです。
 とたんに私の頭が何か大きな力で、押し付けられた様に床にピタ―ッと頭が付いてしまった。その時「ああ神様が私の前にお立ちになった。これで私は目が開く」と無条件に思えたんです。いつも目が見える様になりたい、なりたいと夢見て目が見えたと大喜びして、フッと目がさめたら夢であって、悲しくて枕を濡らして泣く事の連続でした。
 まあこれまた夢を見ているのではないかなあと思って自分のほっぺたをつねってみて、「アイタタ!」これはやっぱり夢でなかった現実だ、そうしたら次にはスウーと頭が涼しくなって来たんです。 その時に「ミシンミシン」と何者かが御宮に入って行く気配がしました。  
 そしたら同時に扉が「ギィー」と言う音がして閉まった感じがしました。そしたら頭がフッと上がりました。

⑭ああ目が開いた 見える様になった!
 その時に外を見ました。明暗が目に映りました。ああ目が開いた見える様になった。もう次の瞬間は神様に御礼言うことも(もう死ぬことも何もかもコロリと忘れてしまって)ころぶ様に、うれしさ一杯で我が家へ帰ってきました。そうして大きな松の根っこなどをどうしてつまづかずに超えて、暗い夜に飛んで帰られたんかなあと後で思いました。
 そうして自分の部屋へ走り上がって見廻すと何もかも黄一色に見えるんです。ちょうど私の部屋は四畳半の父が使っていた茶室のあった所で、ひょっと違い棚を見ましたら、椿が一輪ざしに差してあるんです。それも皆黄色でした
 何と神さんケチやなあ同じ見せてくれるのなら色別をつけてくれればいいのに、思ったが次の瞬間ああもったいない黄色だけでも、あれは椿だと分からしてもらえるだけありがたい。部屋の中を、むさぼる様にぐるぐる見廻して、見るものすべて懐かしかった。
 私の母親は私の肌着と足袋だけは母親が水を汲んでくれましたが洗わされました。そうしたら肌着は適当に手でもんでいますが、足袋の裏の汚れだけは落ちたのか落ちていないのか分からない。まだ私はその時白い足袋を履いていました。それが分からない。
 こうやって手の感覚は鋭くても、汚れが落ちたか落ちないかが分からなかったが、黄色くてもそれがわかるだけ有難い。もったいない。盲目で一生暮らさんならんのを見せて頂いたのだから不足は神さんには申し上げられないと思いまして自分の部屋から心を込めて、お宮の方向に向かって御礼を申しました。
 翌朝方、夢の中で私の枕元に神人が立たれ『私は産土の神である。汝の前世の罪は大きくて一生盲目で過ごさねばならん所を国祖大神様が綾の聖地にご降臨されて世人を救世されている。国祖大神様の大愛により、目を開けて頂けた』と。目ざめて、有難く涙が流れた。

 
第7話
第7話 松本松子の幼少~15才まで ⑮

⑮御礼をすんで目を開けたら 始めて色別がついた!
 感謝の御礼をすんで、目を開けたら始めて色別が付きました。その時は嬉しかったですなあ。「ああ、やっぱり神様はいらっしゃると思いました。」早速と兄に尋ねましたが国祖大神様をお祭りしている神様は知らなかった。
 それから二年後初めて村長の所に、大本の宣伝使の方が来られ、そこで国祖大神様が祭られていることを知り、すぐに御礼の為に参拝し、修行も受け入信させて頂きました。 
 「自分は一生盲目でいなければならないところを見さして頂けるようになった。そうだこれからは、神様の前で申し上げたことは実行しなくてはいけない。神第一で神様の事は何でも無条件に良い事をさせて頂きましょう」と、心に決めました。 
 ところが、さて目が開いて見ると、正直言って、「ああ、お茶も習いたい、お花も習いたい、学校も行きたい」と一ぺんに欲が沸いてきました。それで欲を出して、いろんな手続きを取りました。 
 当時、愛善新聞の一部売り活動が盛んでしたが、私は自分の事ばかりしてました。 
 すると、又目が悪くなって来ました。万事休すです。神様に嘘をついていました。 「ああ、神様明日から新聞売りに行きます。どうぞ目を開けて下さい。目が見えなかったら何も出来ません。そして欲は捨てて神様の御用をさせて頂きますから、どうぞ御無礼をお許し下さいませ」と、お詫びしてお祈りをしますと、ご神前からとっても良い匂いがしてきました。 
 私の知り合いに、欧州航路の船員の奥さんがおりまして、「コティの香水」をもらって大切にしていました。私は母親に、「お母さん私のあの香水を出してきてつけてる?」と聞くと、「この子は根性が悪い、あんたの香水をだれがさわるもんか」と言いました。それでも良い匂いがしてる。変だなあーとよーく嗅いでみると香りの元は御神前から出てました。それからよく神様にお詫びをして、新聞持って玄関の敷居を出ると目がはっきり見えてきました。
 そして田舎の家を一件一件一日中歩きました。一日中良い匂いがついて回ってお腹もすかず、のどもかわかず、喋って歩くのに疲れもなかった。
 ある日も、真黒な雲がわいてきて、夕立が来そうな傾向になってきましても、「神さん濡れてしもうたら風邪ひきますから、家へ帰るまで、雨をどうぞ降らさないように御守護をお願いします」と言うて小走りで帰ってきますと、家の門に入るなりポツポつと来ます。そして玄関へ入ったらザアーと雨が降ってきました。
 それからはお陰をくれるのがあたりまえの様に思うようになり、そうして神様の御神業にお使えしておると、「神様はどんな無理でも聞いて下さる!」と、いう事を体験し、「一生懸命になってお願いしたらどんなお蔭でも下さいますよ」と、自信を持って皆さんに、申し上げることが出来るようになりました。
 本当にその通りなんです。どうか私の体験を、皆様しっかりお聞き留め頂いて、神様の御用第一にして、正しい願い事なら、必ず神はこの世にあり、お聞き届け下さいます

 附 以上の内容をアニメビデオ『龍神に乗った少年』シリーズの第二巻の『天国へのチケット』にまとめております。 そこでは、私は松男と男の子に変えております。 (これは出口日出磨尊師様御面会の時に松本松男さんが来ているなあーとおっしゃて頂きましたので、ビデオは松男にしてあります)

 
第8話
第8話 「大神人・出口王仁三郎聖師様の御葬儀に参列の奇跡」松本松子

「大神人・出口王仁三郎聖師様の御葬儀に参列の奇跡」
 昭和二十三年一月十九日出口王仁三郎聖師様御昇天の報を受けた時、徳島県那賀郡に疎開していた私は、生後六カ月の子供が肺炎になり家にいました。子供は母乳も飲まなくなり小鼻も紫色になり重体でした。
 私は主人の止めるのも振り切って、子供は家に寝させていても死ぬ時は同じだから聖師様の御葬祭に参列させて頂き、子供も聖師様に連れて行ってもらおうと心に決めました。当時、許可証を貰わないと列車に乗れません。許可を貰うには時間がかかりとても翌日の列車までには貰う事ができない、しかし、二十四キロメートル先の日和佐(ひわさ)という始発駅の一番列車のみ無制限に乗せてくれるという事を聞き、これに乗らないと、とても御葬儀には間に合わないのですぐ身仕度をして、重体の子を背負い何日かかるか分からないので米を持てるだけもって、雪路を山越二十四キロメートル程夜中歩きました。
 峠に着くと、真っ黒でどこの方向が駅なのか分からず途方にくれた時、神様にお願いをしてと思い、天津祝詞を奏上していると、どこからか犬がやって来て、私の方を振り返り振り返り、歩き出しました。
 この犬に付いて行けば、ひょっとして駅に行けるかもしれない、神様が教えて下さっているのだと思いずーっとついて行きました。  空が白々と開ける頃、街の明かりが見えてやれやれと思いました。
 大きな荷物を持ち、子を背負いふらふらしながら這うようにして何とか一番列車に乗ることが出来ました。六時間位かかりやっと高松に着き、宇高連絡船まで走りました。大勢の人が殺到したので、一生懸命走っても行列の半ば後方になり少し前の方で綱を引かれました。係の人が「半分より後ろの人は明日の船になります。ご承知ください。」と言われた時、私は心中で「この船にどうしても乗らなければご葬儀に間に合いません神様何とか乗せてください」と必死で祈りました。行列の両側には警官と米国の進駐軍がずらりと並び混乱防止の取り締まりをしていました。
 しばらくして諦めている私に向こうから背広を着た青年が「ちょっと、あんた来てください」と声をかけられました。多分荷物が多いので米の取り調べの人かと思い、仕方なしについて行きました。するとその人はどんどんと人をかき分け船の中に入って行くので、私はしめた、船の中で取り調べをするのなら何とか時間稼ぎをしている間に船が出てしまえば御葬儀に間に合うと思い、乗船すると、その人に「おシメをお洗う所はどこですか」と尋ねると、その青年は快く教えてくれました。オムツを洗っていると大姓の人がどやどやと乗船してきて、一杯になり、そのうちに出船しました。
 人が乗船してくると、その青年もどこかへ行ってしまい一言御礼をと思い係の人に尋ねても見当たらず、帰りの乗船の時も探して貰いましたが、ついに会わずじまいでした。
 何時間もかかりやっと京都駅に着き山陰線も満員で、通路もあるく所もない位の人でしたが一か所だけ空席が目につき、ヤレヤレ神様のお陰で坐れたと慶び足の下に米の袋をどさりと降ろし、子供を前に抱え、こっくりこっくり眠ってしまい「ワァワァ」と大騒ぎの声に気が付くと隣に座っていた三人の男の人がいないのです。しばらくしてその三人が帰って来て「米を沢山もっていたなあ」との会話、何と私だけが知らずに私服の刑事の横に座っていたのです。私の米にけつまずきながら、刑事さんは私にやましい事がないので空いた席に座っていたと思ったのか、私は米も取られず無事亀岡の聖地に着きました。
 御葬儀にも間に合い、二代様に御面会すると、子供を見て「あっ、この子はいかん、今日は宿舎に休みなさい」とのお言葉を頂きました。参列中、子供は衰弱しきって目も開けない位でした。かすかに呼吸している状態で背中に負われ通しでしたので、もう聖師様のお供をさす覚悟で居りました。
 雪の中を綾部へ御葬儀の列は続き、背中に負って御葬儀に参列しました。御葬儀が終わる頃に子供が乳を飲みだし、一命をとりとめ、大きなご神徳を頂きました。
 帰宅の時も列車はすごい混雑でした。その時一人の老婆が踏み倒され、その上を人が踏んで行くのを目撃し、とっさに私は背中で老婆をかばい「子供がつぶれる」と大声で叫んで、人が止まった瞬間に助け起こした事がありました。いろんな事がありましたが、いかなる時も神様を信じて行動すれば大きなご神徳がいただけると確信しております。

 
第9話
第9話 「まさかの時は親子でも仕方がない!」 松本松子

 「まさかの時は親子でも仕方がない!」
 昭和十七年出口王仁三郎聖師様が大本事件保釈後、私は毎月御面会させて頂いておりました。そのご面会の時、私だけに「まさかの時は、親子でも仕方がない事があるでなあ」とおっしゃいました。その時、私は心中で聖師様は男の人だから母親の気持ちがお判りにならんのや、母親というものは自分に代わってでも子供を助けるものやと、思いつつ「はあーそうですか」と生返事をして、その後はその事をすっかり忘れておりました。
 そして、昭和二十二年九月になって、大本開祖大祭に、当時元宝塚歌劇のトップスターでありました、若菜月子(本名井上妙子)さんのお嬢さんに鏡獅子を奉納させて頂くお約束を二代様(出口王仁三郎聖師様の奥様)にして居り、そのお世話を私がさせて頂いておりました。綾部のハタノ会館で地方家元を招いての大奉納でしたので、私は生後間もない子供を背負って、若菜さんが泊まって居られる西村旅館へ行きました。本部報告への打ち合わせが終わると、深夜になり田舎の事にてタクシーもなく、徳島の家に帰れなく困っておりました。丁度運良く芝居帰りのお客さんを乗せたトラックが、旅館前を通りかかったので、旅館の人が、そのトラックを止めて、私を乗せてくれました。荷台は人で一杯で端に乗った私は、ガタガタ道の山のカーブで子供を背負ったまま「あっ」という間もなく六~七十メートルある渓谷に振り落とされてしまいました。
 耳を「「ヒュー」と切る風の音と共に、闇の空中で何回か回転した様な気配の中、急に背中が軽くなり、子供が飛ばされたと分かりました。その時、なぜか落ちていく何秒間に聖師様の「まさかの時は親子でも仕方がないでなあ」とのお言葉が思いだされました。今がそうだ、私も空中で落ちてゆくし、闇夜にどこかへ飛ばされた子をいくら助けようと思ってもどうすることもできないと、肝に命じました。もうあきらめるしかないと思いどうせ落ちたら助からない、せめて恰好の悪くない様に死のうととっさに思い、合気道を少し心得えてましたので、身体を丸めました。と同時に「どすっ」と私の懐に丁度抱きかかえた格好で頭を私の顎の下に身体は私の膝の上に飛んだ子供が返ってきました。  「あっ、子供や」と無我夢中で抱えた瞬間「ドサッ」と川の平たい岩場に落ちました。痛くて息が出来ずにいると、懐の子が泣き、上の道路で多数の人が「わいわい」いう声が聞こえ、若菜さんのよく通る声で「大変やー松本さんが落ちた」と言うかん高い声と、「子供は生きている」と叫んでいる声が聞こえてきた。「親も生きてます」と言おうとしても声が出ず、それから何分経過したのかは今は記憶にないのですが、旅館の息子さんがロープで助けに降りてきて下さいました。
 そこはダンプカーとか車のよく転落する魔のカーブで、四日前にも警察署長以下五名の人が落ちて全員即死になった場所でした。落下した岩の回りはゴウゴウ水が流れており、丁度岩場にうまく落ちたのも、大変なご守護を頂きました。
 皆、その場にいてトラックに乗っていた人や旅館に泊まっている人々も、私共親子が生きていたのに驚かれました。トラックで家まで送ってくれましたが、落ちて岩で打ったところが痛くて、息が出来なく、お土をたくさんねって一晩中、脇腹を湿布しました。子供は右足首から血が出ていた位で他はどうもなかった様子でほっとしました。
 翌日、綾部に行く約束をしてましたので、神様によくお願いをし、痛みをこらえて徳島の魚井味噌店(当時熱心な信者さん)までバスで五~六時間揺られて、行くと、綾部大本本部より井上さんがお越し下さっていて、私の様子に驚き、「私が代わって奉納内容を報告しますから、ここで休養してください。」と言ってくださり、ほっとして、魚井様で二~三日寝させて頂き、その後元気に親子共々宣教活動を続けさせて頂きました。
 当時疎開先の徳島県那賀郡日野谷村では私共親子の転落事故は大変有名となりました。

 
第10話
第10話 「先祖が復祭をして救われた」 松本松子

 「先祖が復祭をして救われた」
 私の家は代々神社の神主でしたが、叔父の宮崎民衛が、大本に入信しても先祖様は復祭(大本式に先祖様を祭りかえること)は必要がないと申してましたが、私の兄の宮崎正が「大本に入信させて頂いたのだから、いくら神主の家といっても大本式にした方がよい」と申し、綾部の梅松苑(大本本部)にて復祭して頂くこととなり二人が参列しました。
 復祭が始まり本部の祭官が先祖の名前を一人一人丁寧に読み上げる毎に、祖霊社という先祖をお祭りする社の前に四メートルもある大きな神様が立派な装束を付け、お立ちになりました。叔父は霊眼といって死んだ人とかの霊が見える能力を持っていました。
 男の先祖がザンバラ髪でヒョロヒョロと出て来て、その大きな神様の左の袖にピタッとついたと思うとス―と吸い込まれて神様の後ろの方に立派な武士の姿に変わり、また女の先祖はボロボロの衣装が神様の右袖に吸い込まれて後ろの方に十二単衣の美しい姿に変わられて行く状を見てビックリしました 「これは何としたことだ。大本というところは実にすごい力のあるところである。今日は本部に来て復祭させて頂いてよかった」と私にいつも話してくれました。

 
第11話
第11話 「御神水で胃ケイレン治る」 松本松子

 「御神水で胃ケイレン治る」
 昭和二十年に、ある信者様の奥様で当時女子大学を出た才媛の方がおられました。ご主人が御神徳を頂かれて入信されたのでしたが、いつも神様を拝んでいるのを横で笑って、信じていなかったのです。
 ある日の夜半頃この奥様が胃ケイレンを起こされお医者様に注射を打って貰い、その場は治まり、家から病院にお医者が着かれたと思う頃、再び痛くなり、すぐ再診を願い、二回も注射を打って頂いたそうです。その時はまた、治まりホッとしたのもつかの間で、三度目の痛みがおそって来たのでした。 もうこれ以上お医者には気の毒で言えないということで本人も困り果てたのでした。その様子を見たご主人がふと「神様にお供えしたお水を頂いたら治る」と言ってしまったのです。腹の中で「今が神様の力を示すチャンスだ。これで治れば妻も神様を拝むようになる」と思ったそうです。
 奥様は余程苦しかったのか、「嫌だけど、本当にあなたのおっしゃる様に神様のお水で治るなら飲みたい」と言われました。しかし、そのご主人はご神水で治った体験もなかったので、ああ言ったものの、もし治らなかったら、益々妻は神様を信じなくなるし困った・・・と思いつつ「信じて飲むことが大切だ」と言い、グラスに水を入れてご神前で必死に祈ったそうです。
 奥様はご神水を飲むや否やスーと傷みが止まりその時以来、素直にご主人と一緒に神様を拝んでおられ、ご家族も現在信仰を継いでおられます。

 
第12話
第12話 「ハンセン病者がお松とお土で完治した」 松本松子

 「ハンセン病者がお松とお土で完治した」
 昭和二十四年の事です。四国の愛媛県の小部という所の若い女性の方でしたが、ハンセン病に侵されて苦しんでおられ、そこにご祈願を頼まれて行きました。
 足の裏がボロボロで穴が開いて、ひどい臭気が漂っていました。顔は小豆程のブツブツができ一年に一回高熱が出て、足のかかとの部分から膿が出骨が出てくる程になる。このようなことを繰り返していました。早速御祈願をさせて頂き、足の部分には、お土を水で練って、穴の所へガーゼにお土を包んで挿入させ、朝と夕に取り替えさせました。約一ヵ月後に再訪させて頂いた時には、臭気がなくなり、顔のブツブツが消えていました。
 そして、二ヵ月目には、発熱しないのに足の踵より、骨のような真っ白いものが出てきました、何だろうと思っていましたが、何日か後に足の皮膚と判りました。
 足の皮は厚いので真っ白に見えたのでした、そうする間に、ネズミに噛まれた様にボロボロだった足がきれいに治ってきて、ハンセン病も治ってしまいました。
 その女性の方は治っても世間の人が知っているのでと申され、ハンセン病患者ばかリ収容されている岡山の施設に一生をささげると言われて行かれました。
 それ以後、お会いしていませんがまだお元気の事と思います。

 
第13話
第13話 「御神水で蛙の子が苗代に入るのを防ぐ」 松本松子

 「御神水で蛙の子が苗代に入るのを防ぐ」
 四国のお百姓をされている方の事です。
 私が大本へ参拝を勧めました時ですが、今、苗代をしてあるので行けない.そこの苗代を踏まれると、駄目になるから」と言われました。そこで大本の大神様に「私が大本への参拝より帰ってくるまで、苗代をお守り下さいと、お願いをしたご神水を苗代にまきなさい。そうすれば大丈夫だから」と申しましたが、その人は大笑いされて「そんな水をまいた位で蛙が入らないことはない」と言われましたが、「神様は信ずる人には必ず、御神徳下さる」からと説得し、半信半疑のまま、その人は、ご神水を苗代にまいて五日間大本へ行きました。五日後、帰るなりその人は苗代へ走って行きましたが、ビックリされました。苗代の畔に蛙の子がいっぱいいるのに、一匹も入ってなかったのです。
ご神水のお力には驚くばかりと感謝されました。

 
第14話
第14話 「人の思いは恐ろしい」 松本松子

 「人の思いは恐ろしい」
 昭和十八年戦争中の事です。四国のある男の方の話ですが、ある日突然腕が上に上がらなくなりました。その当時は米を供出する事が厳しい時でした。この人は供出係をしていました。
 お医者様にずーとかかっているのに手が全然上に上がらず困り果てて居られました。
 私にお取次をと頼まれ、させて頂きますと、米の供出を厳しく言われて腹を立てている人の思いが、その方の手にかかっておられましたので、私は「その方にかかっている人に次回会った時お詫びをするよう」に、言っておきました。
 その後何日か過ぎて、そのかかっている人と、その男の人が列車であったそうです。その時、その人は「お前、私の腕にかみついてひどいじゃないか、私は係りなものだったので、ついきつく言いすぎて悪かった。食事でも一緒にしよう」と、言ったそうです。相手の人は「いや、あの時は私も腹が立って、もうその事は忘れました。ワハハ・・・」と笑ったそうです。すると、それ以来手が上がる様になったそうです。

 
二代分苑長山本文子宣伝使のお蔭話シリーズ
第1話
第1話 母の思い出 山本 文子  

私の母松本松子は、平成八年1月三十日に八十一歳で宣伝使の生涯を終えました。私は兄が一人おりました。私が生まれる前の日まで宣教活動をしており、三代教主様からお葉書で、男子の場合と女子の場合の両方の名前を頂きました。その日のうちに礼状をポストへ出しに行きその帰途に陣痛が来て、翌朝私が生まれました。

 

私は学校へ入学するまで母の背で宣伝歌の子守歌で育ち、その頃は大本でも子連れ宣伝使として有名だったそうです。とにかく母は霊界物語に出てくる宣伝使の様で一日睡眠時間三~四時間、一日多い時は六十人のお取次ぎと身の上相談を受けていたとの事でした。私は母が各地宣教に行く度に信徒さまのお家に預けられ、各家をまわっておりました。私が学校へ通うようになると、本格的に母の宣教活動が始まり、二年に一日だけボロボロになった着物(昔は銘仙と言って布地が弱かった)とすり減った下駄を履き替えに帰って、翌日、または長くいて二~三日で出かけていきました。 私は小学校入学式も隣の家の小母さんに連れて行ってもらいました。  その頃は戦後でしたので、一家は大本信徒さまの特任宣伝使をされている人のお誘いで徳島の山奥に疎開しておりましたが、その人に、神様のお道が開けるから、支部の為の家をたてなさいと言われ、父はその通り建てましたら、完成した直後に、その人から神様の命令でと言われて家をとられてしまい、この嫌な思いをしてからというもの大本信仰に猛反対するようになり、母が宣教活動できない様に、帰ってきても下駄を隠したり、お金を隠して出かけられないようにしたりしておりました。しかし母の意志は強固で、山から材木を満載したトラックの材木の上に、無料で載せてもらい、四時間も、振り落とされないように材木にしがみついて徳島市内の信徒様のお家へ行くこともありました。

 

私の友人は、私の家が父子家庭だとずっと思っていたようです。子どもや家庭の事はすべて神様が良いようにしてくれるから私は人助け第一でと、それを貫き通した人生でした。そんな母に私も反発した頃があり、幼少の頃から朝夕拝は欠かしたことはなかったのですが、それは朝起きて顔を洗うといった生活習慣でしかなく、家庭を顧みない母に不満もあり、いつしか心は大本の神様から離れ、キリストの日曜学校に通ったり、仏教のお話を聞きに行ったりしていた時もありました。その頃、父が末期の肝臓癌となり、重体で入院させてもらえず病院から帰された時、兄と二人で随分悩みました。母はと申しますと、「信徒様で癌の方を三人も引き受けて御祈願、指導しているので今は家には帰れない、主人が病気と知らせたら皆さんに心配かけるので何も知らせず、亡くなったら『すぐ帰れ』とだけ電報を打ちさない」と。私はそこまで強い信念を持っている母の信仰態度に「待てよ、私も一度真剣に祈る価値のある神様かも?」と気付き、二十一日間私なりに望み事をお願いしてみました。するとぴったり二十一日目に希望が叶い、もう一度違った、自分としては不可能に近い望みを二十一日間頼んでみました。それも二十一日目に叶ったのです。  しかし、一~二度は偶然かもしれないと考え、三度目は父の病気をお願いしました。名医と言われていた小松島の信徒様の加藤病院長様も往診に来て下さり、よくもって一週間と言われ、その時、手足は細り顔は土気色で腹水でお腹は異様に大きく腫れ、尿毒症も起こしており、どのお医者様にもさじ投げ状態でした。

 

私は  本当の神様ならば助けてくれるに違いない、(母が家庭も顧みず、宣教活動のみしている)と祈願をしました。すると、祈願二十一日目に母が突然帰宅し、母は「いつも元気いっぱいの自分が、主人のことを思い泣きながら綾部の本宮山で祈っている姿をみて、不思議に思った古い信徒様が、事情を尋ねてくださり、その方が、自分が万が一の時に飲もうと肌身離さず持っていた、たった一つの開祖様のおひねり様をあげますと、おひねり様をくださり、その足ですぐ帰ってきたので、すぐ父さんに飲ませるように」と言い、すぐご神水で飲ませました。すごく大きい紙のおひねり様でした。飲んで半日くらいたった頃、突然父のお腹がすごい音がして汚物が排泄され、四十二度以上の高熱がその日からピタリと止まり、食欲が出てきました。主治医や近所の人の驚きもさることながら、私は、このことで、大神様の存在を信じることになり、それからは自分自身のお祈りの仕方や態度が一変しました。その当時父は五十歳でした。母は一言も私に「祈れ」とも何も言いませんでしたが、時々祝詞奏上が嫌になった時は、そういう時こそ這ってでもご神前に行き祝詞を奏上しなさいと注意されました。

 

母の晩年に、朔日参拝しておりました頃、梅松館の受付の若い男の方が母を見て、「宣伝使松本松子先生と、三代様が良くおっしゃられるので、どんな人かと思っていたら,何だ、こんなお婆さんか」といわれ、私は驚いて、「何でですか」と聞き返しましたら、「この大本のなかでも三代様が宣伝使○○先生とおっしゃられる人はこの松本さんしかいないので、もっとすごい人と思っていたので」と言われました。確かに母は、三代教主様のお言葉通り、生涯宣伝使だった思います。私が長女出産の時も、神戸にいた母は、信徒様の仲人に行き、主人の姉が病院に手伝いに来て下さいました。母として、妻としての母はとても家庭的な人であり、いつも家族の事を思っていました。ですから格別、家庭の事が出来ないことが辛く、修行であったと思います。しかし、母は「神様に失明している目が開けてもらえば一生神様のことを人々にお伝えします」という願をかけ、それを実践した人でありました。母は六十五歳の時に、頼りにしていた兄(三十五歳)が昇天したときも、一度も神様に不平を言わなかった人で、信仰の道の師匠として、尊敬できる人でした。私は、祈って神様に通じないものはないという不動の信を母の背を見て教えてもらった気がします。私もご祈願と身の上相談で家のことが不十分になることもありますが、主人は信仰熱心でありますし、子どもたちもよく手伝ってくれるのでなんとかやれております。  母は信仰一筋五十年の褒章の時に、尊師様の「原」というご染筆を頂きました。確かに母は、荒地に種を蒔き、原野を耕していった苦労の一生でありました。そして、この松香分苑の原点となってくれた人でもあります。母の意思を継ぎ、私も宣伝使として宣教活動にひたすら励んでおり、全国お導き功労者褒章を頂きました。これからも母の生きてきた道に恥じないよう、精進努力を忘れず、ご神業に邁進していきたく思います。  
最後に母が好きだったお歌を紹介します。  
 「聖師様お歌」  
   ここだくのなやみ憂いもみこころぞ  
       やがては開く花の春来ん

第15話
第15話 「霊界からのメッセージ」 山本文子

 「霊界からのメッセージ」
《兄の死》
私の兄が病死した時の事です。危篤になりある病院の集中治療室に入院して意識のないまま三日目を迎えました。心臓が悪くて倒れたのですが心臓だけは頑張って動いていました。倒れた兄自身も努力すれば助かると思っていたのでしょう。お医者様も「よく頑張っていますよ」とのお言葉を頂いていましたが、もう三日目になると、他の胃とか肝臓からすでに出血が始まっていると告知された時、母は覚悟して集中治療室の兄に面会し、兄のベットの所に行き、心で兄に「今度の発作は大きいのでもう助からない、あきらめて霊界へ行きなさい」と念じたと同時に鼻から血をたらりと出すと同時に心臓波を停止しました。病院より遺体で帰った兄に、私が、「お帰りなさい」と声を掛けたら鼻血がスーと出て知らせてくれました。私にとってはたった一人の兄でしたから霊界のある事は、大本のご神書である霊界物語(全巻八十三冊)で良く知っていても寂しくて心に大きな穴があき、落ち込んでいました。すると死んだ筈の兄が毎晩五十日間(神道は五十日祭・仏教は四十九日)私の夢に出てきて、死んだ日からの状態を教えてくれました。 
《死後の五十日間》 本葬の時は私どもに混じって兄が一番よく会葬者に頭を下げていました。亦、十日祭の頃になると一度赤ん坊になって三才位に成長していました。霊と言って霊魂を祭ってある前で兄嫁の母が毎日霊界物語を音読(声を出して読むこと)してくれたお陰で恩頼(みたのふゆ)をいただいて早く霊魂が成長したとのことでした。五十日間は交替で音読し続けました。特に霊界物語の天祥地瑞の巻になって兄の霊魂の成長には目覚ましいものがあり、五十日目には三十才の美しい顔になり、何の苦しみもなくなっていました。
死んで五十日間はいつも家にいた通りの事を兄は普段と変わりなくしてましたし、私共が思い出して悲しむと兄の心は灰色のようになり世界が一面大型スクリーンの世界に入った様に悲しみの心になっていました。ビックリして生きている人間は死者を知らない内に苦しめたり悲しくしていることに気付かされました。それ以後できるだけ楽しいことを思い明るく努めました。
《三途の川》
 いよいよ五十日の前日になり、いつものように夢の中で私に、「明日いよいよこの川を渡って向こう側へ行かねばならぬ、上流を渡るか中流か下流にすべきか、どこを渡った方がいいと思うか」と尋ねられました。私は判らないので、美しく済んだ小川に自分の足を浸してみると温水だったのでびっくりしました。丁度十月でしたからもう水は冷たい筈と思っていたので余計驚いたのです。「こんなに気持ちのいい川ならどこでも好きなところを渡れば」と答えました。
 それから四~五日兄が夢に出てこなくなり、不思議なもので毎日会っていた兄に合わなくなると心配になり気にかかっていました。
《霊 国》
 五日目に見知らぬ大きな石作りの御神殿のある立派な家に兄がいました。私に「よく来てくれた」と言ってくれましたが、何だか少し疲れている様子でした。  病死した兄なので、また病気が再発したのかと思って心配すると、兄は「現界と違ってこちら霊界の空気は少し違っていて慣れるまで、高山病のように少し動くと疲れる」 と言いました。
 十畳位の部屋の隅を見るとタンスの前にハンガーの付いたまま、愛用していた洋服が一杯山のように積んでありました。私はもう感心するばかりでした。たしか、遺骸は焼かれて骨まで置いていったのに誠に不思議なことだと思いました。
《霊界の兄へ紋付を送る》
 兄が「あわてて紋付をもってくるのを忘れたので明日届けてくれ」と言われましたので、「はい」と返事して目が覚め、どうしたら届けられるのか実際困りました。母に相談すると、いとも明快にそれはご先祖を祀っているお宮の前に紋付を置いて。想念(心の思い)で送ればよいと申しました。 早速そのようにしましたが届いたのかどうか不安に思っていましたが、翌日名古屋の知人から「紋付を来て兄さんが挨拶にきてくれた夢を見た」と電話があり、届いたことを確信しました。
《死後も同じ父》  また、父が四年前に急死しました時も、父の霊が出てきて「五十日間は三度三度の食事をいつも通り準備して欲しい」と言われ、亡くなった寂しさより忙しい思いをしました。  弔問の来客で忙しい私はお昼になっても父の霊前への供膳の用意ができない時パンをビニール袋ごと供えて父に叱られました。「ビニール袋とかビールの栓のしてあるのは食べられない」と言われ、手がかかるなあという思いがあります。量が少ないとお腹がひもじいと言われたり、夜は晩酌で熱燗にしてくれと言われたりです。
 皆さん、とにかく生きている通りに五十日間はしてあげないと、亡くなった人は満足しないという事です。私は死んだ父の思いがよくわかるので、私は一番親孝行者だと、今も死んだ父に自負しています。

 
第16話
第16話 「教主様のお写真より金色の神様が現われる」 山本文子

 「教主様のお写真より金色の神様が現われる」
 昭和五十五年の暮れの事です。故重成カネ伯母の体験談です。
 孫が十五才の時、左の脇腹に握りこぶし大の固まりが出来、痛くて苦しんでいました。 折り悪しく暮れで家業の菓子製造の一番忙しい頃であり、病院も休みに入り困っておりました。家内中のものは忙しくて、その子をカネの伯母が見てやっていました。あまり痛い痛いと泣くので伯母は困り、み手代お取次を伯父の故宮崎正に頼もうと連絡しましたが留守だったので、母の松本松子にも連絡しましたが、連絡が取れず、仕方なく伯母はみ手代を持ってなかったが、とっさに『大本祝詞』を半紙に巻いて、その孫をお取次しました。
 伯母は、お取次は初めてで必死で目をつぶったまま神様にお願いをしていたので分からなかったそうですが、お取次を受けいる孫が「おばあちゃんが祝詞をあげていると高松塚古墳の写真のような頭の格好をした金色の小さな女の神様と小さい男の神様が、三代教主様のお写真と日出磨尊師様のお写真から出てきて、男の神様が如意棒のようなもので、僕の左脇腹の固まりをたたくと、乞食の姿をした汚い男が飛び出し、出口王仁三郎聖師様のお写真がかかっている方に、その写真を取り落そうとよじ登って行くのをすごい力でつかまえて、汚い男を軽々とひっかかえて、部屋にある火鉢に放り込み燃やしてしまった。 そして、その灰を箱に入れて女の神様にお渡しすると、再び、お写真に二人共に入ってしまった。  僕はビックリしたので、御神前の方を見ると家の立松がすごーく大きな松林に見えて、神様の社も大変立派に見えた。 目が変なのかな思っていると、おばあちゃんのお取次が終わり、左脇腹の固まりもすっかり消えて治っていました。本当に不思議な出来事だった」と孫は伯母に話したそうです。

 
第17話
第17話 「心肺停止で霊体験」 山本文子  

 平成八年二月一日母松本松子の発葬式を終え来客の皆様がほとんど帰られた夕方、弔問名簿を片手にした時、意識が丁度テレビの画面がスート消えてゆくような感覚でなくなりました。主人の声で「文子が倒れた、おかしい、心臓が止まっている、救急車呼んでくれ」まわりの親類の人たちの声も「えっ、今まで元気にしていたのに疲れで気を失っているだけじゃない」主人の声「違う息もしていない」と叫ぶ声が聞こえていました。
 一~二分後消防士の信徒様が私に心臓マッサージをしてくれ、主人は口から酸素を送ってくれるのが分かりましたが、当人の私はなんだか夢うつつの気分で、苦しくもなく心臓停止の感覚もありませんでした。
 間もなく、救急車が来て私をタンカに載せ玄関で急角度に運びだした時、頭がタンカより外に出ていた為、強く玄関のタイル壁にぶつけられました。
 その時、主人の姉が「危ない」と大声で言ってくれました。私も「痛いじゃないの物でないのだから、もっと丁寧に扱ってくれればいいのに…」と心中思ってました。救急車中ではペコペコという心臓マッサージの音が絶えず聞こえ、主人の励ましの声も聞こえましたし、車外に信徒様が立っているのがなぜか分かりました。(普通は心臓停止の状態ですから分からない筈ですが)そして、後日義姉に聞きましたら、声では出さず心で思ったとのことでしたが、当人の私は大声で心の声を聞いていたのです。豊橋市民病院では午後五時半頃で夜間交代の為に医師が多人数いて応急手当が良く、電気ショック二~三回で「心臓が動き出した」との声が聞こえました。
 しかし、脳への負担を少なくするために低体温療法がとられ、注射でまる二日間眠っており(この間、記憶全然なし)身体も氷で冷却されていました。 二月三日節分大祭終了後長生殿へのご祈願により眠りから覚めました。しかし、大きな不整脈が続き、いつ死ぬか分からない状態でいつも主人が横に昼夜通しで側にいて介護し、絶えずお取次ぎをしてくれました。意識が回復しても気管には人口呼吸器が取り付けられていました。痰取り吸引されていました。吸われるために身体がのけぞる位辛く、苦しいものでした。あまりの苦しさに無我夢中で人口呼吸器をはずし、主人が気がついて大騒ぎになり、再び器具をつける施術をしなければという事になりましたが、主人が私の苦しむ姿を見ていて血液中の酸素が一定数値であればつけなくてもいいのでは交渉してくれ、検査結果、再びつけなくてもよくなり、あの苦しみから解放され、やれやれでした。低体温療法の為、風邪を引きましたが、日ごとに身体が回復し次々と症状の軽い部屋へとベッドが廻され運ばれて六日目には集中治療室の四人部屋に移されました。
 左隣には、首を骨折した男性で私に「助けてくれ 助けてくれ」と頼んでばかりで、向かいの二人の女性は意識不明でした。
 私は、主人が、集中治療室の中にいて「みて代お取次」とご祈願、その上お松とお土の煎じたのを毎日持って来てくれ、寒いので毛布を掛けていました。(こんな事は許されないのですが、病院の医師も看護婦の方もすぐ死ぬと思っていた為か好きなようにさせてくれました。)
 そして、八日目にはすごい回復力で管も外してもらい、一人で点滴をもってお手洗いに通えるまでになりました。まわりの入院している人達も、医師も看護婦の方々も一人として声をかけてくれず、異様なものを見るような視線で見つめるばかりです。病院は一分毎に映しているテレビカメラ二台の内一台は、私ばかりずっーと二十四時間映している事を付き添いの方の話しで分かりました。私だけ、祝詞奏上したりお取次ぎをしたりしているので病院側として不思議な所作を監視していたのでしょう。
 入院中四代教主出口聖子様、出口京太郎様はじめ長生殿へのご祈願申込みや、分苑信徒の皆様はじめ家族一同の必死の祈願により心肺停止した私が再び後遺症も無く十日間の集中治療室での入院後、退院をして自宅で百日間静養、その後社会復帰できました。
日出磨尊師様の生きがいの本に「死んでみないと死んだ人の気持ちが分からない~」と、ありますが、本当にそうだと思います。 救急車で運ばれる時に壁に頭をぶつけられたと医師に話しましたら、心臓停止の状態では分からない筈ですし、救急隊員の人達はそんなミスを犯す筈がないと言われましたが気が付くと、私の頭には大きなタンコブがありました。医師も看護婦さんも驚いていました。
 皆さま、お葬式の時に、心で思った事はすべて故人に声になって聞こえる事を知って下さい。心の中で思った事はすべて故人に届いたわたしの実体験をお話しさせて頂きました。
 倒れてより今年で九年目を迎えました。
 市民病院では一ケ月、長くても一年目には死んで病院に来ると断言されましたとおり、退院一ケ月に心臓が苦しくなり再度病院に行きましたが、先生を待っている数時間の間にすっかり元気になり帰ってきました。
 このように死に目に何度もあいましたが大神様の大変なご守護を頂き現在も元気にご神業に励ましていただいております。

 
第18話
第18話 「お茶人」 山本文子  

私が三代様にご面会させて頂いたときの事です。
 三代様は「皆、大本の信者さんは水を粗末にし過ぎている。私が皆に代わって神様にお詫びさして頂いている。お水は国祖大神様の血液やでなぁ!」とおっしゃられました。その時、故伊藤よしゑさまに向かい「お茶人さんやなぁ」とお声を掛けられました。
 三代様は茶道の先生がいても決してお茶人さんなどと誉められた事はありませんでしたので、どうしてかなあと思い故伊藤よしゑさまを尋ねました。
 故伊藤様は「私はお茶椀等洗った水は溜めて植木にやっています」と、答えられたのには、教主様は何でもご存知という驚きと、故伊藤様の生活態度の立派さに感心致しました。  
 昔からの故事
 「水を粗末にする人は手足の痛い病気になる」と、いましめられたのを記憶しています。
 私どもも故伊藤よしゑ様にならって日常生活を改めてお水を大切にして行きたく思います

 
第19話
第19話 「病気平癒祈願祝詞はすごい」 山本文子  

 退院後、自宅療養をしていた時の事です。分苑の月次祭で病気平癒祈願祝詞を奏上して下さっている時、二階のベッドで寝ておりましたら、御神 前から涼風が吹いてきて身体を通り抜けるように感じました。すると、今まで苦しかった容態が楽になりました。
 後でご祈願をして下さっている人に時間をお聞きしましたら、奏上して下さっている時間と涼風を感じたのと同時刻でした。本当に神さまがお聞 き届けて下さっているのがはっきりと分かり、すごい御神徳をいただく事が分かりました。
 皆さん安易に病気平癒祈願を出されてはいませんか。凄いお陰を頂いているのです。

 
第20話
第20話 「一番感心する人のお取次ぎ」 山本文子  

 ある信徒様のことです。この方のお取次ぎをさせて頂きますと、即効で病気が治ったり、気分が良くなられたりで、いつも感心させられます。私はどの方にも同じ様にお取り次ぎをさせて頂いておりますのに、すぐお陰を頂く方と頂けない方がいます。この差はなぜだろうと思い、良くお陰を頂かれるこの方の信仰態度を見てみますと、神様を絶対的に信頼されていますし、神様の事はすべての事において最優先し、月次祭の神饌物も季節ものの一番良い品をお供えされています。神床も二間床で家の中心に作られております。そして、お取次ぎにより私が内流を頂いて注意したことはすぐ実践されています。苦労されているのにとても素直な性格です。
 こういう人がお陰を良く頂かれるタイプだと思います。世の中こんな方ばかりでしたらお取次ぎも楽しいです。 

 
第21話
第21話 「印象の深いお取次ぎ」 山本文子  

今までの数あるご祈願の中で、印象の深いお取次ぎの一つをご紹介します。
 ある信徒様のご子息の事です。二十七歳の時突然頭が割れそうになり、入院され、精密検査の結果、脳に悪性腫瘍があり、手術成功率は一~二パーセントとのことで、「どうぞ、助けてください」というご祈願の依頼でした。 本人からも電話があり、「今までの人生で何の楽しみもまだ知らないので、これで死にたくない、どうぞ助けてください、もし助かったら何でも言うことを聞きます、お願いします!助けてください!」と長時間にわたる泣きながらの願いでした。それで私はすぐにご祈願をはじめ、毎日必死にご祈願をしました。手術日を迎え、十数時間に及ぶ大手術と言われていました。私は手術時間中、必死にご祈願をさせていただきました。もちろんご両親も、手術室の廊下で祝詞奏上をしていました。手術開始から六時間経過のとき、突然手術室のランプが消えたので、ダメだったとご両親は一瞬覚悟されたそうですが、執刀医が出てこられて、「手術は大成功でした。驚いたことには、昨日の検査の時は腫瘍がドロドロで、手術してもダメだと思っていましたが、今日頭を開いてみると、なんとイボのように腫瘍が固まっていて、そこを切り取っただけで、こんな不思議な手術は初めてでした」と言われたそうで、執刀医のお名前は私と同じ苗字の山本先生という事でした。 ご両親より電話で「ありがたい、うれしい うれしい」と感謝されました。手術の日より、二ケ月も経ったある日のこと、私は神様からの内流で、「この方がまだお礼参りに来ていない」とのことにてびっくりして電話でお聞きしました。すると、「何日も入院で会社を休んだので今は出勤しています」ということでした。退院後、一番先に神様にお礼参りに行ってくださいと固くお約束していましたし、本人たちも、必ず行かせて頂きますという返事でしたから、行かれたたものとばかり思っておりました。私も毎日多数のご祈願のため、この方のことはすっかり念頭になかったのですが、神様からのお知らせにより気付きました。その方に「神様との約束は必ず守って下さい。守らなければ、次のご祈願の時は聞いて下さらないと思いますよ」と強く申しました。その時に、本人は二か月前とは全く違って、「こんな寒い日にお礼参りに行けという神様はひどい神様ですよね」と言われ、私は「行くか行かないかはあなたのご自由です」と答えました。その数日後、何年振りの大雪の日に親子揃って御礼参拝に行かれたとお電話を頂きました。この方が退院されたころは、珍しく小春日和の暖かい日が続いておりました。もっと退院後すぐにお礼参りに行けば、暖かい日に行けたものを、と思いました。
 神様は、約束は必ず守って下さいますが、人間は、心変わりがあるという事を痛感し、私はこのお取次を通じて、人間の心の本質を悟らせて頂い た、印象深いお取次でした。

 
第22話
第22話 「煎じ松の効果はすばらしい」 山本文子  

二度目の入院のことです。体力が完全に回復してない頃から、ご祈願とお取次ぎの回数が段々と増え、心肺停止より復帰してからと丁度一年後のある朝、突然呼吸停止になり、隣に寝ていた主人が、私の異変に気付き、すぐ救急車を呼んでくれました。息ができない苦しい中「分苑の神の家を建てるまでは、私は死ねないのや」と心で叫んだ時、息が出きるようになりました。
 意識がもうろうとしていましたが、病院到着の頃、医師の呼びかけに何とか答える事が出来ました。
 一日個室で酸素吸入していましたが、一年前の心肺停止カルテにより、そのまま検査入院となりました。
 重症患者扱いで、あらゆる検査をしましたが、発作原因不明のままでした。しかし、強い心臓の薬は毎日飲んでいました。入院中、主人の届けて下さるお松を煎じたお茶を湯呑一杯でも飲むと尿検査機械での数値データーが、すこぶる良くなることを発見し、薬害がなくなるので毎日嬉しくて飲んでいましたら一週間で退院出来ました。九年たった今日、元気に過ごしております。
 もちろん、毎日煎じ松にスプーン一杯のお土を入れ、松炭も飲んでますが、病院の薬は全然飲んでおりません。    
「聖師様お歌」
  白銀も黄金も玉もかずならず
          身のすこやかに勝るものなき

 
第23話
第23話 「言霊武道『和良久』で体力回復」 山本文子  

私は生まれつき、霊を感じる体質です。幼少から母の宣教活動で、信徒様の家々にあずけられていましたが、どこの家に入って も光が射してくるところがご神前で、迷わず玄関からご神前に直行しておりました。しかし、人形をお祀りしている家の、置物の人形の目が動いたり、そこの家にいる霊が見えたりと、霊を感じない人にはわからない辛さがありました。学校へ通っている時も講堂で母親を亡くした友達が隣に座ったとたんに、亡くなった母親が、私に「助けて~」とのりうつった瞬間その場で給食を吐いてしまい、先生にひどく叱られたことがあります。友達は、お腹が痛いとか、頭が痛くなると、私と手をつなげば治ることを知っていたので、友達は多人数いましたが、私自身は健康体なのに、いつももその友達の体の不調を受けて、具合が悪い時が多かったのですが、父が元気印でしたから私が霊を感じて発熱していても、学校を休むことは許されず、毎日毎日辛い日々でした。
 しかし、宣伝使を拝命し、みてしろお取次ぎを始めますと、神様からの内流で、他の人よりも早いスピードでお取次ぎが出来ることが分かりました。お取次ぎをしていると、どんな身体の悪い未信徒様よりも、熱心な信徒様が私のそばに来るだけで、その方の「因縁・めぐり」を神様が救おうとされますので、私は受ける霊の量が多く、苦しんでいる時間が長いという事がわかりました 。分苑以外の方からのお取次依頼も増え、一日八時間くらいのお取次が何年も続き、ついに心臓を悪くし、とうとう心肺停止となり入院しました。退院後、お取次ぎは主人や、分苑信徒宣伝使の方に分担していただいておりましたが、霊を受ける体質はますます強くなり、寝ていても、誰かが私にご祈願をと思われるだけで身体が苦しいのです。もちろんお取次ぎをすれば回復しますが、近年、その受ける量が格段に多くなり、どーっと疲れが残るようになりした。
 ある日、前田比良聖先生のご指導されている、言霊武道『和良久』に出会って早速、分苑に出稽古に来ていただくようになり、初めてから一年十か月になりました。気が付くと、始める前より体力が回復し、お取次ぎをした後の虚脱感が早く治ることに気づきました。
 私が倒れてより、大変ご心配くださった四代教主様がお導きくださったと感謝いたしております。
 どうぞ、お取次で霊を受ける方は、是非、『和良久』をされることをお奨めします。 『和良久』は四代教主様が御命名されました。

 
第24話
第24話 「死を覚悟して」 山本文子  

平成二十七年七月八日のことです。日ごろから心臓の調子が悪く。ペースメーカーになってもほとんど機械で信号送りやっと動いている状態が続いておりました。
 しかし「開祖様沓島ごもり世界平和記念百十周年、沓島冠島記念祭典」に名指しで参拝するように四月朔日付で案内を頂きました。今まで参拝できていない人は必ず参拝するようにとのことで、その日から自信はなかったですが、潔斎を始めました。
 いよいよ七月八日に梅松苑に行きましたが、案じた通りその日は一睡もできず、心臓はひどい不整脈で本部で用意されたマイクロバスにも乗れず、主人の自家用車で現地に行きました。道を探しながら行き、集合時間にぎりぎり間に合いましたが、もうこれで生きてこの港に帰って来れないと死を覚悟しました。
 船乗り場までの桟橋が、遠く感じて主人に付き添われてやっと船に乗った時に、海が非常に穏やかで、沓島の方から海風がサーと吹いてきました。途端に心臓が自力で動くようになり楽になりました。これで助けて頂いたと思いました。
 冠島まで思ったより早く着きました。老人島神社まで、大きな石で足元も悪く、距離もあるので、船に残ろうと思っていましたが、お世話係の先生に「ちょっとでも行きましょう」と声をかけて頂き、全く自信がなかったのですが、行けるとこまで行って引き返そうと思っていました。ゆっくり歩いて何とか着くことが出来ました。
 それでもまだ祭典は始まってなく、無事祭典にお参りできました。だんだん元気になってきて、疲れるどころか復路は皆と同じように歩いて船まで行けました。沓島にも無事上陸でき、また宣伝使代表として玉串奉奠もさせて頂きました。
 行きも帰りも海が穏やかで、帰りは行きよりもビックリするくらい元気で帰ることが出来ました。行きは抱えられるようにして歩いて船着き場に行っていましたので、主人が迎えにきてくれた時に大変驚いていました。
 沓島はあきらめていましたが、無事参拝できて、開祖様の御守護を大変身に染みて感じさせて頂きました。
 分苑代表として行けましたので、松香分苑はこれで大丈夫だと思いました。

 
                                       
信徒の方々のお蔭話シリーズ
第25話
第25話 「大難を小難に 小難を無難にして下さる神様」 西宮市 TT様  

 大本様との出会いは。昭和の事です。松香分苑分の初の一番の信者として主人が信仰に入らせて頂きました。
 私は本当に無信心で前の松本分苑長様が毎月月参りに来られますが、本当に知らん顔でした。
 或る日、私は朝からとても気分が悪く食事も喉を通らない有様でした。店の子に背中をさすってもらったり、胸の鳩尾ら辺が大層痛く、特に足はとても痛くて金槌で叩いても痛みが取れない状態でした。
 夜、松本先生がお祭りをして頂きましが私は神様にもお参りもせずに店に座って居りました。先生がお帰りの時に、私に優しく声をかけられ、「今日は 奥様は大分お気分が悪く食事も出来ませんでしたでしょう。この方は暑いところで亡くなられた方で、ひどい死に方やね・・・私が帰ってすぐにお祈りします。きっと奥様は少ししたら気分が良くなりますよ・・・」と帰られました。私は何の事か少しも分からずただ気分が悪いだけは変わりませんでした。
 少しすると電話があり、私の又いとこが自動車事故で亡くなり((南方のコロンビア)明日が四十九日だからお参りして呉と言う電話でした。まもなく先生がお帰りになられた時間と共に私の気分もすっかり良くなり食事をあわてて頂きました。後日私の痛い所と又イトコの自動車事故にあったひどい状態の所が一致してました。もうすっかり驚いて以後何だかこわい神様だと思いました。
 でもその時以後も少し神様を拝まして頂く程度でした。所が、六年前に喉の甲状腺に、“ハレモノ”が出来、その横に癌が出来大変な病気でした。神様のお陰で早く治して頂き又、三年後に乳癌になりました。この病気も神様のお蔭で早く気付かし頂きその上関西一の先生に執刀して頂きました。
 その後店の経営上問題で(メーカーに騙されて)倒産になりかけましたが、ほんの少しの傷で立ち直りました。
 この無信心の私はこれ程に助けて頂きまして大本大神様に、心より感謝感激致しました。
 微々でありますが日々心より神様に感謝いたしまして、より一層に信仰に励まさせて頂きたいと願って居ります。

 
第26話
第26話 「度々のお取次で忘れる様に病気が治っていた」 神戸市 IK様  

 神様のご縁を戴きまして初めてのおかげを戴きましたのが昭和十一年、私が喘息を患い苦しんでおりました時、知人に宮崎先生、松本先生を御紹介して戴きました。
 神様や霊の実在など全く知識のない両親や私が、先生方のお取次ぎを受け驚くような体験や目でも見せて戴きました。
 『度々のお取次で忘れる様に病気は治って居りました』
 以来数十年の間には父が胃潰瘍で今度吐血すれば助からないと言われたのですが、お陰を戴きました。
 母も二度の大病をお助け頂き、共に九十一才・八十八才と天寿を全うさせて頂きました。昭和十三年七月五日、関西地方を襲った水害の時は付近一体の家屋が流失埋没する中で少しの被害のみにてお助けを頂きました。
 日々の暮らしの中にも「アッよかったおかげを頂いた」と思うことは度々あります。
 松本先生のお供で朔日参拝をさせて頂いていた頃は、三代様の御面会もしばしばあり、その都度なさる御話は教えでもありお諭しでもあり、いつまでも心に留めさせて頂いて居りますのは何にも勝るお陰と存じて居ります。

 
第27話
第27話 「長生殿参拝で歩けるようになった 名古屋市 OT様  

 信号が青から黄に変わったとたんバスが急発進しました。前の信号が赤になる前に渡ろうとしたのです。
 私はバスに乗ったばかりで腰掛ようとした時、突然前から後ろの方へ飛ばされました。身体中をあちらこちらにいやという程強く叩きつけられたのです。すぐに救急車で病院に運ばれそのまま入院となりました。
 医者には「もう一生左足は曲げることは出来ないだろう」と言われました。約四か月後に退院しましたが足は曲がらず、痛みもひどかったのです。事故にあってから一年後に綾部の長生殿に参拝に行きました。杖と友人に支えられて、やっとの思いで参拝しました。家に帰ると急に足の痛みもやわらぎ大分歩けるようになりました。
 それから三ヵ月程して再度参拝に行きましたが杖もなく何とか歩けるようになりました。帰って数日すると足の具合が急に良くなって、痛みもほとんどとれ、大分曲げられるようになりました。長生殿の参拝で医者が「治らない」と言われた私ですが、今では一人で階段も登れるし、足も良く曲げられるようにならせて頂きました。

 
第28話
第28話 「無事帰ってきた娘(一才八か月)四キロ先の山中で発見‼」 豊橋市 KF様  

 今から約三年前大変なご神徳を頂きましたが、あの頃のことが目に浮かび涙が出てきて書きたくありませんでしたが、これを書くことであの頃、私たちがお世話になった方々が読むかもしれないと思い、筆をとらせて頂きました。
 大神様、日出磨尊師様はもちろんのこと感謝とお詫びの気持ちで一杯の事を伝えたいと思います。
 平成二年一月一日私達家族四人は綾部本部参拝の為、松香館二階の大広間の隣に宿泊しました。翌日主人と共に祭式講習を見学していましたが、午前十時頃、子供二人と私は部屋に居りトランプなどで遊んでいた時、一才八か月の長女がふとした間に部屋からいなくなりました。外は雨も降っているし出て行かないと思いました。建物をアチラコチラと探しましたがどこにもいません。玄関の靴を見て「ハッ」としました。
 先ほど長女仁子と同じ年恰好の子の家族が玄関で靴を脱いでいましたが、小さい子の靴だけが、ありません。その家族連れがぬいでいた時、この靴うちの子なら“すぐに履いていく”と思い「子供の届かない靴箱に入れたいなぁ」と主人に言っていました。もしやと思いその部屋を訪ねるとやはり皆さん部屋に居られました。
 ざっと、みろく殿と商店街を捜しましたがいません。受付の方に尋ねると“苑内にいるんじゃないですか”と言われ、とにかく祭式を見学している主人を呼び、主人は車で外を、私は捜しながらみろく殿の前へ行き大神様にお願い致しまして「後は日出磨尊師様しかいない。」と思い緑寿館の廊下の前まで行き、住所、名前、年齢、服装を二、三回口に出して言ったのか心中強く言ったのか覚えていませんが、「どうか早く無事に見つかりますように」とお願い致しまして、“ぐずぐずしていれば見つからなくなる”と思い再び受付に行き、警察に連絡し、本部、警察の方々に捜して頂く事になりました。 
 私は本部の浜谷さんと言う方の車に乗せて頂き、綾部の町の老人ホームの近く、マーケットの中など捜している頃、日出磨尊師様が「山・山・山」と色紙に書かれたので山の近くに行き、これ以上はいくら子供でも人通りはなく道も細くなるし不安になり、行かないだろうと引き返しました。
 本部、警察の方々もパトカーで町中放送し捜して下さいました。結局見つからず本部へ帰り暫くして「見つかったらしい」と連絡を受けパトカーで保護され無事、娘は帰って来ました。発見現場は四キロメートル先の火葬場の近くで、それ以上行くと全く分からないと言う所。ラジオでも放送して下さりそれを聞いていた藤原さんと言う方が、わざわざ探しに行き見つけて下さいました。大神様、日出磨尊師様の大加護のもと、もしこの藤原さんと言う方が居られなかったら仁子は無事に見つかりませんでした。
 今もテレビでよく子供が行方不明になったとのニュースを聞くたび、あの時の事が思い出されます。
 私の知らない、いろんな方々にご迷惑をかけ一緒に捜して頂いた事。私の頭に焼き付いて居り、大神様、日出磨尊師様はもちろん皆様には感謝とお侘びの気持ちで一杯でございます。
 あれから四年、娘は病気もしなくなり順調に成長して居ります。
 娘が大きくなり、これを見て、大神様、日出磨先生、藤原さんと言う方、他多くの人達に助けて頂いたことを知り自分を大事にして、私自身ももちろんそうですが、少しでも神様の御用に使って頂ける人間に、また知らない方々にも役に立たして頂きたいとの願いと祈りをこめ書かしていただきました。
 どうも本当にありがとうございました。

 
第29話
第29話 「一億円のご神徳」西宮市 TI様  

 七年ほど前より私自身原因もなく身体が動きにくい日々が続きました。亀岡、綾部、分苑と参拝を続けておりますある年、カラつゆで二ヵ月あまり猛暑の後大雨が降り続き、カラつゆと大雨が原因で近辺の木々と言わず私共の庭の植木、フェンスが倒れ木は傾きと言う惨状に見舞われました。
 後日この惨状にも似た大波乱が私共の家業に襲いかかることとなってしまったのです。
 私共は一流ブランドの女性服店を経営しており、本店が三〇有余年主力取引しております大企業に長年だまされていることが発覚したのです。
 一流企業であるためと、社長幹部と親しいため巧妙な伝票工作が見抜けなかったのです。あまりに毎年高額の請求が参りまして、平成四年度には一億円となり、とても小売りの域を超えた額となります。
 何千万円のうちはもう数字に慣れっこになっており、さして気にもしなかった状況ですが、億を超えていくきわみで目が覚めた様に衝撃を受け、これはバブル崩壊に向かって神様のお気づけだったのだと思います。
 巧妙な手口の伝票を一枚づつ確認し、過去十年間のデーターを出し、三年周期で画策されている状況は見事なものでした。
 全国にある大型店及び老舗と言われる店が次々企業側のものになって行ったのはこの理由かと目をさまされ、かつ恐怖が襲います。
 毎日神様に母と共にお願いをさせて頂き、松本松子先生には必死にご祈願賜りました。
 気づいた時点で大阪弁護士協会、副会長を務められました高名な弁護士に相談致しました居りは、相手が大企業であるため容易に認めては頂けませんでしたが、二度目にお会いするおり、十年間のデーターと伝票持参致した時、一も二もなく「私が出ます。」と申されましたおりの嬉しかったこと。
 しかし、こういう場合交渉の方が早道であり(破産申告が金銭的には無キズで良いのですが)稼業を続けたいとの母の希望にのっとり一年の年月をかけて交渉致しました。
 最終二千万円で弁護士立ち合いのもと契約書を交わし、後くさりのないものとさせて頂きましたのが、教主様分苑歓迎会の二、三日前だったと思います。
 この後、交渉の心労で母が乳ガンの大手術を致しましたが、そのおりも五〇〇名入院患者の持っておりますにもかかわらず、母は瞬時入院執刀と多大なお陰の連続でした。
 こまかい事まで書かせて頂きますと、おかげに枚挙がないという厚いご守護を頂いております。こういったことを経験させて頂き、国祖大神様のご神格、また霊継ぎの式において国祖のご霊系をお継ぎなされました四代教主様のご神格と言うものがようやく私のお腹の中に入って参りました。
 今後とも一生懸命行動をもって大神様におすがり申し、おつくし申し上げたいと存じております。 

 
第30話
第30話 「原因不明のゼンゾク」(喉にうろこ状の痕が…お取次・お清めでみるみる良くなる)豊能郡 IH様   

 祖母と母から聞いた話ですが、私が五歳の時原因不明のゼンソクになった事がありました。
 熱があり激しい咳が休みなく出て、何度病院に行っても良くならず、病院での薬や漢方薬、喉に良いからと糸ミミズを飲む等、いろいろ努力はしたものの良くならず、祖母も母もほとほと困り果てていたそうです。
 その症状が五十日ほども続いていたある日、いつものように祖母に連れられ病院からの帰り、当時近所に住んで居られた松本先生(初代松香分苑長)と出会い、世間話をしている時、孫の私が病気で通院していることを話したそうです。
 その時初めて「お取次」をして頂き「氏神様のお使いの蛇を殺しているのでお清めをしたら良い」と言われ、その事を祖母が私に尋ねると「家の裏庭の石垣で蛇を殺した」と言ったそうです。
 その時の私の喉には、うろこ状のロープ痕ができ、たえずゼーゼーと苦しそうにしていたそうですが、松本先生の言われた通り「お取次」「お清め」後、数日でロープ痕もとれ五十日間も続いた症状がみるみる良くなり完治したそうです。
 病院の先生はもちろん、古くより他の神様を信仰した祖父母、母もこの不思議な出来事に大変驚くと共に、この時初めて「大本」を知る事となったのです。この事がきっかけとなり、その後松本先生には幾度となく熱心にご指導して頂き、祖父母、母、数年後には私も入信させて頂く事となりました。

 
第31話
第31話 「ご神水を両目につけて視力回復したわが子」徳島市 IH様

 娘、良美が三年程前幼稚園の眼科検診で初めて目が悪い事を知らされました。
 小学一年生入学時の検診で、以前より悪くなっているので専門医の検査を受けるように言われました。
 数カ月後専門医で詳しい検査を受けた結果「この子の目は残念ながら九十九%回復は不可能です、現状維持も困難です。メガネが必要となりますから作って上げて下さい」と言われ同行していた妻はガックリとして帰って来ました。
 子供にも聞いてみると「字がボーッとして小さい字が見えない」と言いますので学校の先生にも前の席に座らせるようお願いもしました。
 母に、この事を話しますと「本部のご神水を目につけて一生懸命お祈りをしなさい」との事で私もお取次をさせて頂いたり、毎月の参拝時にはご神水を頂き両目につけて母も私共もこれ以上悪くならない様にとお祈りをさせて頂きました。
 三か月程参拝させて頂いた頃学校で再び目の検査があり、その結果を聞き私も妻もびっくり致しました。何と幼稚園時、両眼共0.6、小学入学時0,5、専門医による検査で0,5と三人の先生が診察していたにも拘わらず、右目1.0左目1.2 と言うではありませんか、私も妻も最初は数字の間違いだろうと信じられずにいましたが、子供に聞きますと「すごく良く見える」と言うのです。
 わずか三ヶ月前の専門医による検査で医学的に回復は困難ですと、言われた目が回復したのです。
 母も私も本部にすぐ御礼参りをさせて頂いたのはもちろんですが、神様は私共のように疑ぐり深いものでもはっきりと目((数字)でわかる超医学的現象を体験させて頂きました。また普段は何気なく頂いています、万祥殿のご神水にもご神力と大神様のご加護が頂けた事に大変驚くと共に感謝致しました。
 前項のような不思議な縁で大本に入信させて頂き、また数々のご神徳を頂き、大難を小難に、小難を無難にさせて頂くご加護に日々感謝すると共に普段何も出来ていないご神業ご奉仕に家族全員もっともっと頑張らねばと反省するばかりの毎日です。  

 
第32話
第32話 「熱湯のはずが冷水に・・・」(神様が頭にかかる瞬間水にして頂く)徳島市 IF様

 昭和六十一年三月頃の出来事です。私は毎朝、お寿司のねた造りの用意をすることが日課でした。毎朝七、八十匹の海老を茹(ゆ)で仕上げるのです。
 その日も海老を茹ではじめ五、六分沸騰して流し場に移すのですが、その時大鍋の底が流し場に引っ掛かって煮え立つ湯と海老が私の頭、顔に波のようにかぶりました。その時「しまった」と思った瞬間熱湯のはずが『冷たい水が頭から顔に流れている』と感じました。
 七、八人の従業員は大変な騒ぎとなり早く医者へ、医者へと急き立てるのですが、私自身異常もなく不思議な位でしたが、皆さんのすすめにより医者に行き、見て頂くと先生は『熱湯とぬるま湯と間違ったのでしょう、熱湯ならこんな筈はない』と信じてくれません、少し塗り薬を頂き家に帰り床につきました。
 その時お土を貼ろうとふっと頭に浮かび、早速お土を顔一面に塗り寝ていますと半時間くらい立った頃に顔に大変な熱が出てきたので手の平を顔のお土の上に当てますと、手が熱くて驚きました。
 外面は異常のない様に見えましたが、内面は大変な火傷をしていたのでしょう。二時間程でその熱も引き水ぶくれすることもありませんでした。
 神様が顔にかかる瞬間に水にして頂くという大変な御神徳を頂きうれしさが一杯でした。回りにいた従業員の皆さんはこんな不思議な事はないと言い、また無信仰な従業員の一人は「神様に助けられたなあー」と唯、驚くばかりでした。至らない私に数々のお救いと御加護により大難を無難にまつりかへて頂き幸福な日々を送らせて頂いております。ありがとうございました。 

 
第33話
第33話 「タクシーに跳ねられ車の下敷きに」徳島市 IF様

 昭和四十七年二月十一日の夕方の出来事です。不思議なご神徳を頂きましたので皆様にお話しさせて頂きます
 その日は仕事が定休日で買物から帰る途中横断歩道の信号が青になり通行中、信号無視のタクシーに跳ねられその下敷きになり車の前輪が私の腰の上に乗り掛かった時は「だめだ」と思いました。しかし気が付いてみると不思議と何処も痛みもなく身体も動くので心の中で『神様に助けて頂いた』と思いました。
 運転手さんは、私の姿を見て押しつぶしたと思ったのでしょう足も身体も震えていました。私は「大丈夫です心配ないからね」と慰めて上げました。
 その車で病院へ行きましたが、医者は私の身体を一寸見て「異常はないから帰ってバンソウコウでも貼って家で休んでいれば数日程たてば治る」というほどの外面は軽傷な状態でしたが、実際には後で分かった事ですが、大変な事故で十年後に腰痛のためにレントゲンを掛けますと、医者は「井内さん、あなたはいつ頃腰の骨を折ったかと」尋ねるので事故の事を申しますと「その時腰の骨が折れていたが自然に大変きれいに完治されているからもう心配ないよ」といわれ神様の御神徳と御加護に胸が一杯になりました。
 事故の時に腰が折れている事が分かれば私はどんな大きなショックを受けていただろうと身体が震える思いでした。  神様は医者に不親切に思う程の簡単な言葉で最高の治療をしてくださった事に心から感謝しています。
 養生中は「事故を起こした人は一度も見舞いにも来ず大変不親切な人だ」と思いましたが、その時私の頭の中に人を憎んではいけない、自分の罪穢れの為にこんな状態になったのだと深く反省しますと、それから相手の人の事も思わなくなり心も身体も大変楽になり、医者の言葉通り入院もせず三十日程で仕事にも復帰することが出来ました。
 此の事故を通して、どんな事があっても人を憎んではいけないということが、自分自身を助ける大切な事を神様はおさとし下さいました。ありがとうございました。

第34話
第34話 「神様の御蔭で子宮癌を克服した私」名古屋市 MM様

 平成四年の冬仕度が始まる十一月二十八日に私は産婦人科へ癌の検診に行きました。
 十二月五日に結果を聞いて、頭がくらみ目が見えなくなりそうになりました。というのは子宮癌の程度を五段階で見たら私の症状は一番重度な五でしたから、国立病院へ行くように言われ、十二月八日診断の結果、すぐに入院と決まり、いろいろ検査をしてから、翌年一月七日子宮癌摘出の手術をしました。入院と同時に不眠症になり睡眠薬を使う様になり薬を飲んでも眠れなかった時 は最高に辛い思いをしました。そんな状態のまどろみの中で三代教主様の夢を見せて頂いたり、四代教主様が夢に現れたりしてくださいました。
 ある夜は亀の背中に載せて頂いた夢を見せて頂き、神様に一生懸命お願いすれば絶対に救って下さると思いました。四月八日に退院しましたが、五月二十四日には制癌剤を注射するために再入院しました。
 手術の時からずっと万祥殿の大神様に病気平癒のご祈願をして頂き「おひねり」 さんも頂きました。神様からお力をいただいて六月十日に退院することが出来ました。六月十二日には念願の松香分苑の月次祭に参拝させて頂き感激しましたが、この日から睡眠剤を飲まないで眠れるように努力しました。それは厳しい戦いでした。九月二十二日まで百日間続きました。ところが九月二十三日の三代様教主様のご命日には完全に睡眠剤無しで眠れるようになりました。こうして、食事も美味しく頂けるようになり体重も増えて目に見えて元のからだの様に元気になって参りました。
 からだが弱っている時はいろいろなことを考え、悪い方悪い方へと考えを持ってゆくことがあります。こんな時に励まし力づけてくれるお道の友を持っていることは幸せです。神様の厚いご守護のもと分苑長はじめ皆々さまのご祈願とお力添えで、これだけの健康を取り戻すことが出来ました。真で神様にお願いすることが、何ものにも勝ることを悟りました。ありがとうございました 。

第35話
第35話 「他宗教を辞めると命がないと言われて」神戸市 TA様

 私は昭和三十六年に知人に紹介され入信させて頂きました。その当時他宗教に所属しておりましたので「大本」に変更したいことを〇〇教の先生に告げました。すると、「ここの宗教を辞めたら一年以内に命を取るから」と脅迫され、現にその時の妻(先妻)が急に癌になり病院のベットでその○○教の先生が首を絞めに来る、助けてくれ助けてくれと叫びながら悶死したのを目のあたりにした所だったので余計に怖くなり大本には入りたいが辞めると殺されるしで悩んでいました。その時、思い切って松本松子様のおすすめで「大本」につれて行って頂き大本の三代教主出口直日様にご面会させていただきました。
 三代教主様は「大丈夫です、あちらが人間ならこちらも人間です」とおっしゃられました。それで、この時入信をさせて頂きました。その後もまだ不安は消えずにおりましたら、ある日の御面会で、三代教主様が「それほど怖いのでしたら、私がお守りをあげます」とおっしゃられ、出口王仁三郎聖師様の母印入りのお守りを下さいました。それから、大神様をご奉斎させて頂きましたが、毎晩○○教先生のお祈りの時間が来ると守護霊が私を襲ってきて苦しみました。私は大本の神様をお祭りしている部屋にこもり、その時間必死で祝詞をあげて一年が過ぎました。その宗教を辞めてから 一年過ぎましたが、私は生命に別条なく、今、八十八歳ですが大本の信徒として元気に働かせて頂いてます。

第36話
第36話 「餓鬼道に落ちていた先祖が救われた」神戸市 TA様

 大本に入信(昭和三十六年)して間もなく松本松子様に「商売人は毎月の朔日に神様に御礼参りをすると良い」と言われました。それもそうだと思い、近くの産土(うぶすな)の住吉神社の月次祭に毎月鯛を御供えさせて頂いてましたが、大本(京都府の亀岡市)へも松本様と一緒に朔日参拝を実行しました。
 すると、不思議な事が起こりました。手の指が十本共シビれて、真っ白になるのです。
 亀岡天恩教の食堂でご飯を一膳頂くと一本指がもとに戻るのです。ご飯をたくさん毎月の朔日参拝の折に食堂で頂くのです。恰好が悪いなどと言って居られません。それと、だんだん胃は大丈夫なのか不安になりました。 
 しかし、食べないと指が元に回復しないので松本様にお尋ねしました。
「これは高場家の先祖様の中で地獄の餓鬼道に落ちている人が、あなたが神様の御用(神饌物を提供したり、人型大祓いのお勧め)をするので、一人一人口のない亡者が口を開けてもらいあなたにかかり、やっと食べられるようになって救われていってる」と言われ納得しました。このような事が一年くらい続いたのですが、朔日参りのお陰ですっかり良くなりました。また朔日参拝を始めてから、より商売も繁盛し今では、病気一つせず元気で何よりのご神徳を頂きました。

 
第37話
第37話 「網膜剥離になって」神戸市 TA様

 昭和五十三年に突然網膜剥離になりました。兵庫医大に入院する前に大本の三代教主様に御面会させて頂きました。「神様に手術がうまくゆくようにお願いしてあげるから安心して下さい」とのお言葉を頂きました。
 手術後片目を開けると、昼も夜もいつでも三代様が目の前に座っていて下さるのが見えました。夜半に目が覚めてもきちんと座っていて下さるのです。
 不思議な事だなあーと思いつつ、私は隣人も同じ病気で手術しましたが、その人はお医者様の指示通り絶対安静を守っているし、私は寿司業を経営していますのでジーとしていた事がなく、病院でも安静が守れなくタバコを吸ったり、動きすぎて看護婦さんに叱られたりばかりしていました。
 ところが手術後の経過は私がすごく良く、安静しておられた隣人が思わしくなく、不可解だ、変だ変だとお医者様と看護婦さんが言ってました。 三代様が私を守って下さったのだと直感し、今日現在に至りましても、その時の三代様のご守護の広大無辺を思い毎日感謝しております。

 
第38話
第38話 「真剣に祈ればどんな力もいただける」奈良市 SC様

 嬉しい時、悲しい時ありったけの愚痴を松本先生に聞いて頂き、私にとって松本先生は母であり師でもあります。どんな時でも先生は神様第一でございました。
 私もなかなか縁に恵まれず年を重ねるばかりで、それが昭和四十八年、神様のお恵みもあり女の子(小学校)二人いる人と結婚しました。その時も神様の大きなおかげを頂きました。主人は信仰のない人ですが『大本』のお話をしましたら神棚ももってきてもいいとの事で、これならば何とか私もやって行けると覚悟しました。
 結婚を機に松本先生とご一緒に三代教主様にご面会に参りました。三代様は「良かったですね、これから十年は忍の一字やで頑張って大変だけどな」とのお言葉を頂きました。二人の子供のことも自分なりに覚悟はしておったのですが、いざ生活が始まりますと、もうだめだめと、いく度も松本先生に泣きつくことが何年もの間続きました。先生は「最初から解っておることやろ、あんたやったらやれる、神さんに二人の子供を授かったんやろ、自分の子供やと思うから何でも腹が立つのや、神さんのお子やと思ったら腹もたたんで、大事にせないかん。つらい時は神さんにしっかりお祈りする事ですよ。」その言葉は今もはっきり私の心にとどまり、あの時の松本先生のお言葉があったからこそ、今日の私があります。
 ご神前で神さんのお子や神さんのお子やからと心でつぶやきながら、いく度泣きながらお祈りしたことでしょう。こうして子供たちも中学、高校、大学と大神様のお光とお恵みを頂きながら私の手さぐりの子育ても、今は二人とも素直に育ちました。これこそ大神様の大きなご神徳、私にとってこんな素晴らしい幸せなことはありません。長女も結婚し孫も二人出来、孫たちがおばあちゃんを喜ばせてくれます。もう還暦も過ぎ今、自分をふりかえった時私に言えることは”ほんとに“大本の神様を信仰していてよかったと只々その一言です。
 それと単純ですが人の出会いの大切さがとくに最近よく解る様な気が致します。どんな時でも真剣にお祈りすることで、神様はどんな力でもお授け下さいます。
 まだまだ未熟者今日までの日々大神様の偉大なご神徳を頂き、又お導き頂きました松本先生を初め分苑長山本文子様そして分苑の皆様心から感謝と御礼を申し上げます。主人も最近は朝夕拝を真剣にお祈りさせて頂いております。私の一番の喜びです。

 
第39話
第39話 「見えない糸にひかれて大本に」八王子市 KY様

 大本に因縁あるみ霊は大本を知らないうちから引き寄せられているという体験をお話いたします。私の入信は昭和四十三年十月ですがそれにさかのぼること十三年前○○化学会社の札幌支店に居りました時に、肺を患い親指大の空洞ができ半年東京の病院に入院、退院後自宅療養をしておりました時ある晩不思議な夢を見ました。
 それは神棚を背に白衣を着た方の前に座って居りました。そのお方はご年配の慈愛溢れるそれはそれは優しいお顔をしておりました。そのお優しさに引かれていろいろとお願いしたものと思います、すると何かうなずかれたようでしたが一転いままでのお顔とは想像もできない厳しいお顔になったと思ったら眉間から白色とも銀色ともつかない光線が出て私の胸を貫きました。私は怖れのあまり平服した所で目が覚めたわけです。
 その後のレントゲン検査では医師が首をかしげておりましたが、これを境にして病状も良くなり本社、名古屋支店と転勤しました。
 ある日のこと街を歩いておりました時にマッツサージ治療師の水野美津子様のお宅に行けと言う内心の声がしてなりませんでした。その日に限って欄間の額に目がとまりました。
 それは日出磨先生の生活信条です。これほどズバリと人生の生き方を教えられたのは始めてです。その印象は強烈でした。その折り大本の著書をお借りして読むほどに、過去、世の因縁を消すには大本より他にないと確信して入信したわけです。
 丁度、その頃松本先生が毎月一日に亀岡に参拝なさいますのでお供して朝陽館にまいりました。開祖様のお写真を拝見して十三年前に札幌で夢の中でお目にかかった方にあまりによく似ていることに気づき驚いたようなわけで札幌では大本の事は全然知りませんでしたから大本に因縁あるみ霊は、目に見えない糸に引かれて引き寄せられると理解せざるを得ません。
 大本に入信してより夫々の職場でお役目に付かせて頂きました半年、私及び家族に過去、世の因縁が噴き出てきまして、一時はどうなる事かと思いましたが、松本松子先生、宮崎正先生、山本文子分苑長のお取次ぎと長生殿のご奉仕をさせて頂いたおかげでこれもやっと切り抜けることが出来、日々幸せに暮らしております。
 今後は生活信条を心に刻みご神業にご奉仕させて頂く所存でおります。

 
第40話
第40話 「大神様を頼りに心強い生活を・・・」 大阪市 YS様  

 私たち夫婦が大本信仰の道に入らせて頂きましたのは本当に単純なおかげ信仰からでした。   
 昭和三十七年に結婚致しましたが子宝に恵まれず辛い思いをしておりました時、妻の実家の父が鍼灸の先生として故中谷宣伝使を紹介してくれました。(大本の人とは知らずに)その人を通じて松本松子先生に御縁が出来ました。み教えを言心行一致でお取次下さいます先生に傾倒し大本の道に入らせて頂きました。それ以来は大神様を頼りに心強い生活を送らせて頂いております。   
 最近では平成四年に琵琶湖畔に家を新築致しました。これも家が欲しくて一生懸命努力をしたわけではなく経済的にも無理な負担もなく、返済できる金額でなんとなく周囲の皆様の尽力で建ち上ったような感じでした。   
 出来上がった時点で聖師様の短冊(神)を床に掛けさせて頂き留守中の無事を祈り、火の用心戸締り等を点検して帰りました。その二日後弟が行きました所、コンセントは差しておりましたがスイッチは切の状態になっている扇風機から煙が上り過熱し出火寸前であわてて外へ出したとの事でした。   
 いろいろな偶然が重なり大事に至らず大きな御守護を頂いたと思い早速ご神前に感謝申し上げました。       数々のお陰を頂きましたが思い返してみますと入信の動機になりました子供が出来なかった事が大本の神様を知った一番のお陰ではなかったかと思わせて頂いております。   
 万分の一のお返しも出来ませんが今後共、素直な心で大神様を頼りに励まして頂きたいと思って居ります。

 
第41話
第41話 「おかげをいただいて鍼灸院を開業」 亀岡市 TT様  

 私は昭和五十三年一月に結婚した当時は高槻に住んで、治療所と学習塾とを仕事にしていました。妻は公務員で、豊中市へ通っていました。十二月に長男文治が生まれ、育児休暇の後は復職したので、子供は能勢の妻の実家に預けて毎日見に行っておりました。    
 昭和五十四年三月頃、ある人の紹介で亀岡に健康センターを作るので来てほしいと話がありました。聖地の近くで、しかも妻の実家にも近いのと、学習塾よりも鍼灸を本業にしたいと思っていたこともあり、亀岡行きを決心しました。六月からセンターがオープンし仕事を始めました。高槻から通い夕方には塾もやっていましたので車で忙しく往復していました。妻は豊中へ子供は能勢に私は亀岡へと三人の家族が離れて子供を見に行ったりすると高槻・亀岡・能勢と移動に時間を取られる毎日でした。早く亀岡に家がほしいと妻と話していました。    
 そんなある日、新聞のチラシを見ていて手頃な物件に目が止まり業者に電話してもらった時「あなたが買わないと次の方が買うと言っています」と言われ、妻と相談して思いもかけず家を買うことになりました。お金の準備など何もできていませんでしたが、おかげを戴いてどうにかローンを組むことができました。もうその時には長女がお腹にいました。昭和五十五年は七月浩子誕生、育児休暇後、朝は私が子供を能勢へ夕方は妻が連れて帰る。こんな毎日が続きました。昭和五十六年は仕事面ではほとんど進展もなく、経営も大きな負債を抱えて当初の目標とは大きくはずれてきました。こんなことでは先の仕事の見通しも生活設計も立たないと悩んでいました。両親は郷里に帰って治療院を建てて出直したらどうだと治療院の設計図まで画いて進めてくれました。折角、家も買い、聖地の近くで仕事をして来たのにどうしたものかと思案していました。十二月二日に昼休みを利用して万祥殿に参拝をし、月宮宝座、月の輪台、宣霊社と巡拝し、神様にご守護をお願いしました。    
参拝から帰ってみると、浅田建設の社長の奥さんが治療に来ていました。鍼治療をしながら、ふと、社長がオーナーの駅前の一番街のテナントビルのことを思いつき、奥さんに「ビルの一角に貸していただける様なところはありませんか」と訪ねてみました。そうすると「階段の上がったところが物置になっているので主人に話してみます」とのことで、すぐに貸していただけるとの返事をもらいました。あまりのおかげの速さに驚きました。その時の私には冒険だったと思いますが、郷里に帰るより自分の力を試すのはこの時だと思い、お金もほとんど無かったのですが、両親に援助を頼み準備をしました。かたずけをして図面を作り内装にかかって年内には看板もチラシも全てが順調に出来上がりました。センターを三十一日まで勤め、昭和五十七年一月六日に高原鍼灸院として開業しました。正月の五日間で移転ができました。このとき妻は三人目の泰代を宿していました。予定日は九月上旬今度生まれると妻は仕事にはいけないと思いました。    
 それまでに独立しただけの収益を上げて生活が出来る様に頑張らねばと祈る思いでした。おかげを戴いて開業当初から前よりも多くの患者が来るようになりました。計画をしたわけではなく「かむながら」で神様の厚いご守護を戴いて、このようになったのだと思い、胸が熱くなってきました。祈りに応えてくださる大きな神様がおられることは一番ありがたいことです。    
 振り返って見ると、人生の節々に神様が舵取りをしてくださったと思う事の連続であります。家の改装、公文式の開設、このはな文化教室新築、ルーモ亀岡店開店、この間、昭和六十三年三月次男正文、六十三年六月三男豊文、平成三年九月三女太子誕生と大神様のおかげを戴いてみんな元気に育っています。    
 最後に十分に神様からおかげを戴きながら何一つお返しが出来ないことを恥じるばかりです。これからは心して足もとから実行していこうと思います。

 
第42話
第42話 「命のないところを救われて」 岡崎市 RY様  

 昭和六十四年八月に私は仕事で工場に出向いたおり荷物用のエレベーターと床の間に両足と左手をはさまれ、かろうじて右手だけで一〇〇K近い荷物をささえていましたがどんどん重みが加わり骨のボキボキ折れる音がします。大きな声で助けを求めたのですがちょうど昼休みの時間で食事に行って誰もいませんでした。その時外にしばっていた犬が吠えてくれまして隣りの家の人がその声が異常で見に来てくれました。ようやく助けられたのです。もう少し、遅かったら両足左手切断で命さえ危なかったでしょう。3ヶ月近くの入院でしたが不都合は有るものの指はついています。
 当時、母は信仰しておりましたので家に神様をお祭りしておりました。後日、松本先生に御祈願していただいていた事を知りました。その時松本先生は「命のない所をあなたの信仰のお陰で息子様は骨折だけで済ませ大難を小難にして下さった」と母に言ったらしいです。母の亡き後、私もようやく信仰させていただける様になり、母を初め家族一同松本先生には本当に御世話になりまして心より御礼を申し上げます。未熟者の私ですが先生のおっしゃる様に仕事に頑張り神様の御用を一生懸命やらせていただきたいと思います。
 本当に大きなおかげをいただきました。

 
第43話
第43話 「龍神のご守護」 豊橋市 YT様

私の姉より「ある宗教の人が勧誘にしつこく来て困っているのでご祈願して欲しい」と頼まれ、妻が早速神様にご守護をお願いしました。それから二~三か月たったある日、妻から「頭が痛いのでお取次ぎをして欲しい」と頼まれ、いつも自分でお取次ぎをしている妻なのに変だなあと思いつつ、私がさせて頂きました。私は誰かのご先祖様が救って欲しいとかかっていると思っていましたが、家内にかかっている霊が「私は龍神です。以前神様からの命令であなたの姉さんを他宗教よりの勧誘からお守りをしていましたが、今日で任務も終了しましたので報告に来た。」とのことでした。そう言えばその御祈願をお願いしたことをすっかり私共は忘れていたのに、神様はお願いした一つ一つの事をいつもきっちりと守護して下さっているという事を龍神様を通じ教えて下さったことに気付き、今までの自分の態度を深く反省し、神様に対しても申し訳ない気持ちでお詫びを申しました。 姉もこの件はすっかり忘れていたようで電話で、「そう言われれば最近プッツリと来なくなった」との事でした。妻がわざわざ私にお取次ぎを、言ってきたのも、竜神様が私に伝えたかったのだと思いました。
 この時以来私は、神様に一度お願いした事は必ず聞いて下さるので、お願いした後は、必ず御礼を申し上げることを忘れないように心掛けています。

 
第44話
第44話 「神様との出会い」 亀岡市 TM様

 大学の講義で隣り合わせになった主人から「立替え立て直し」の冊子をもらった時、私の前に明るい光が差し込んだような気がしました。小躍りするようにして何度もあの冊子の頁をめくったあの感激は今でも覚えています。
 それから、松本先生のお導きで天恩教のお正月講座を受けさせてもらいました。十九才の初春だった。天恩教での初日に捻挫をして、右足が腫れあがり困り果てている時に、“お土”で湿布そして下さり、三代教主様の御面会を頂き、帰りには、すっかり歩いて帰るというお陰を頂きました。その講座の帰り際に黒門の前で御礼を申し上げている時、四歳ころの記憶がよみがえってきました。私の実家は大阪府の能勢というところで天恩教まで車で四十分ほどのところです。畳職員だった義祖父は自転車にリヤカーを引っ張り畳の商いに出かけていたとの事です
 私もSL列車の煙を見たくてリヤカーの荷台にしゃがんでつれていってもらったのを覚えています。ある日、養祖父が「ここは偉い神様がおらはるところやで。」と立ち止まり合掌していたのを思い出しました。
 日を改めて主人に綾部のみろく殿につれて行ってもらった時にも思い出したことがあります。私は主人と大学で知り合ってから、おほもとの神様についてお話を聞かせてもらいました。そして夢の中で、たびたび白髪のお婆さんの凛とした姿が出てきました 。そのおばあさんが、大本開祖様でいらっしゃったのであります。あの時の驚きは、背すじに水を打たれた時のようであったと覚えています。
 また、ある日の夢の中でこんな夢を見ました。「錦の御旗が揚がった。めでたい。めでたいことじゃ。」と霧深い山里の田のあぜ道を数人の男の人が旗を揚げて歩いている夢であります。その旗の柄とみろく殿正面の御神旗と全く同じものだったからであります。
 現在は、亀岡に住んで六人の子供を授かり仕事と家事に追われ毎日ですが、神様の御守護を頂き充実した生活であります。今は、この身がどこかでお役に立てば、また、そうしなければとつくづく思うこのごろであります。

 
第45話
第45話 「真剣な祈り」 名古屋市 YY様

 平成四年五月五日長生殿参拝を家族揃って致しました。いつも揃って参拝していますが、その時同じ一つの思いを持ちながら必死に、真剣にお祈りしたことはございませんでした。それは娘が大変な病気になり六月一日に大手術を控えていました。
 お松とお土、そして梅干しもいただきました。無事に手術も終わり、大手術にもかかわらず手術後も順調に回復致しました。以前、私は松本先生より「ある信者様が、聖師様に『聖師様祈ったらすぐに聞いてもらえる力を下さい』とお願いしたら、聖師様は『そんな力を与えたら、すでに自分は力があると慢心する、だから泣きの涙で必死にお願いしたら、お蔭をやるのだ』とおっしゃっています。神様に真剣にお祈りすれば正しい事は必ず聞いてくれる」との教えを下さったことを思い出し、今回は身をもって体験させて頂きました。

 
第46話
第46話 「大本との出会い。この世に 神や仏があるのなら一番正しいところに導いて下さいと一ヶ月間祈り出会った「大本」」 豊橋市 YT様

私が京都のある大学に行っていたころ、友人にいろいろな宗教を信仰している人がいた。彼等の話を聞いても納得つかずに、その友人の先生に当たる人の話を聞きに遠く千葉県までも行ったこともありました。しかし、話を聞けば聞くほど矛盾してくるのです。どこの宗教も自分の処が一番正しい教えであるというのです。いよいよわからなくなったので、私は「もしこの世の中に神様や仏様というものがあるのなら一番正しいところにお導き下さい」と四畳半のアパートの室の中で対象に拝むのでなく目をつぶって一ヶ月程、毎日お願いしました。そのとき、私は信仰をしていませんでしたので、お宮、お札、仏壇など一切ありませんでした。
 そして、一~二週間後に学校のクラブの送別会に泊まり掛け参加した際、私の友人が私の神の事を話すのを聞いて近付いてきました。そして、私が今まで疑問に思っていることを訪ねると、いとも簡単に答えるのです。
 私はその答えのすばらしさに驚いて「一体何処でそれを聞いたのか!」と問い返すと、『大本や』大本ではこんな事常識やと教えてくれた。
 その時はもう夜中の一時か二時だったと思います、興奮して朝の四時ころまで話を聞き「その大本に是非案内してくれ」と頼んだところ「丁度別の人を明日案内することになっているから、十二時に京都駅へ来てくれという事になり、私は二~三時間ほど寝ると、大至急アパートに帰り、タオル一本もって京都駅に向かい、そして大本の聖地のある亀岡にやって来ました。
 見るもの、聞くことすべてが素晴らしくてただ感激するばかりでした。そのまま、四泊五日の修行を受けました。何も支度をしていませんので下着も買って着替えました。
 大本を紹介してくれた友人も二年以上クラブで毎日のように顔をあわせ、私のアパートにも何回か泊まりに来たことがありましたが『大本』の話など一度も聞いたことがありませんでした。
 そんな彼が大本の話をしだしたのは、私が「一番正しい、神様の所に案内して欲しい」と一ヶ月間祈った事が通じたものと思います。

第47話
第47話 「凪の日を送る時こそ 大なるご神徳」 西宮市 FY様

この度、松香分苑ではご神徳談集を出すことになりましたが、私には発表する程のご神徳談もなく私自身平素熱心に祈願もせぬ信徒でありましたのでその資格はないものと思っていましたが考えて見ますと、今年七十三才まで長い年月、ひ弱であった身体が大過なく過ごさせて頂けたのは大神様ご神仏による大きなご神徳を頂いている賜と気が付きましたので筆をとらせて頂きました。
 波静かな時は当たり前で過ごし、荒天にあってそれを無事に乗り切った時のみお陰を頂いたと思っておりましたが凪さの日を送る時こそ大きなご神徳なのだと思うようになりました。
 平成五年一月十五日鼻血が出て夜になっても止まらず、就寝することも出来ず祝日の為に病院も休み、翌日耳鼻咽頭科にかかりました。二月十五日祝詞奏上中鼻血、三月十日も祝詞奏上中鼻血、月の半ばになると鼻血が三か月も続きました。
 この頃は、大寒で風の引き易い季節でありましたので医者に罹る事によって膜を丈夫にし、各気管関節の調節も整備させて頂いたものと思います。
 この鼻血が脳で破られたら脳溢血脳卒中だったと思いますとゾッとする程恐ろしさを感じ大神様に感謝致しました。また、こんな事もありました故宮崎正先生が何処か身体に悪い処のある人は今の中に入院するか医者に罹って健康管理が必要ですよとのお話があり、私も思い切って甲南病院に緑内障の手術を受けました。
 その時、松本先生は度々甲南病院まで足を運ばれ御見舞いを賜り手術を受ける時刻には大神様にご祈願までなさって下さいました。
 その後、隣の人の軽い筈の白内障の方が再入院され、重い筈の緑内障の私が視力一・〇と回復しました。それから、叙勲の時もご神徳と思います。運輸大臣受賞は会社側の落度により退職後に頂きましたが、当初、現役でないと叙勲外となり、候補止めとなり諦めておりましたが、心の中で朝晩真剣に大神様に頂ける様、七月二十四日~翌年三月二十九日の長い間祈りました。そのかいあって会社より叙勲の沙汰ありとの連絡があった時早速大神様に心をこめて御礼申し上げました。会社役員のご支援は勿論の事ですが一六段階の審査や手続きを無事に通して下さった事は大神様のご加護の賜のと感謝致しました。
 人力で規則や規定は破る事は出来ない筈でありましょうに大神様のご神徳と存じます。これも一偏に松本前分苑長のご指導ご支援ご祈願のお蔭でございますありがとうございました。改めて御礼を申し上げます

第48話
第48話 「夫婦揃っての信仰」 岡崎市 RC様

昭和五十年新築のおり信仰生活に入っていた義母の希望で神様をお祭りさせていただきました。それから十二年程たって左から右へ流れていた神様のお話が私の中で上から下へと流れるように強く感じられました。
 以後、私の願いはまず夫婦揃って信仰させていただきたいと思う様になりました。神様に御祈願させていただいて五年目義母が亡くなって三年目の平成五年十二月末日に主人が大本道場修業に参加、修了書をいただいて帰りました。今は、朝・夕拝の励行分苑の月次祭の参拝また、祭式練習と私以上にしっかりと信仰の道を歩きはじめています。これは神様からいただいたおかげの中で私にとって大きなおかげです。
 その間多くの方々にお力添えいただきました。「やっとここまでこれた」とも思い初心者の私達ですが、神様にお願いしながら信仰の輪を広げて行けたらと思います。

第49話
第49話 「転落死を救われて」 神戸市 UK様

七年前私は六甲山頂のホテルに勤めておりました。お昼休みに天狗岩の見晴らしのよい高台に行き、帰りに崖より足を滑らし六メートル下に落ちました。
 一緒に行っていた人が私の声に振り向くと私の姿はなく、驚いて駆け付けて下さいましたが、もう死んだと思ったそうです。
 天狗岩と呼ばれる名称のごとく岩ばかりの所ですが落ちて倒れていた場所は、ほんの少しだけお土があり、そこに落ちたそうです。 一緒に行っていた人の中にマイクロバスの運転手さんがおられ、すぐ病院に連れて行って下さいました。
 脳内出血もなく打撲傷で約四か月の入院で済ませて戴きました。大難を小難にして下さり、本当にありがたい事です。もったいないおかげを頂きました。

第50話
第50話 「叶った願い」 神戸市 UK様

私共夫婦はいつも大難を小難に小難を無難にとおかげを頂いております。
 中でも義母(故)「死ぬ時が一番心配です。」と、松本先生に打ち明けておりました。
先生は「神様にお願いすれば必ず楽に死線を超えさせて下さいます」と言われていたのです。
 義母が長女の住む田舎の夏祭りに行きました。その時、懐かしい人々と会い、又、元気にお祭りのごちそうも頂いた日の夜中に血圧が高くて倒れ、長く患う事なく、しかも、娘達にも会い十分な看病を受け畳の上で二日後に亡くなりました。
 郷里で長い間の友人や近所の人々に見送られて霊界に旅立ったのです。
 神様は生前のお願いを叶えて下さったのです。
 義母だけでなく、私共や嫁いだ姉達一同も大きな大きなおかげを頂きました。
 今年二十年祭を無事行なわせて頂き当時の大きなおかげに改めて感謝いたしております。

第51話
第51話 「お土で足のはれがすっかり直った」 名古屋市 YS様

母は明治生まれ現在八十四才になりますが、お陰様で毎日を元気に過ごさせて頂いております。
 若い頃、思いものをもって足を挫きそれが元ではれが引かず足首に油がたまる様になり、病院で抜いて頂くため何度か通院したりしておりましたが、ある日松本先生の「それはお土が一番よろしいですよ」とのことでお土の湿布を始めまして十日目位から、少しづつ踝のはれがひき長い間、年と共に重くなる足の痛みがすっかりと取れました。その後、母は大変喜んで誰方にでも「お土がよい、本当に神さんのお土は良いから」と話しながらの毎日です。我が家ではちょっと虫に刺されてもすぐお土ですから、誰もが知っているところにいつも備え付けております。

第52話
  第52話 「痛みがひどくなるどころかやわらいできました」 碧南市 SM様    

あれは三代様教主様の五十日祭の日の事でした。足がうずいて祭典中正座が出来ず痛くてたまらなかったことを覚えています。
 神様によくお願いして神戸に行き、分苑の月次祭に参拝してから家に帰りました。足の方はますます痛くなり、とうとうガマンできず病院に行きました。その時、既に足には、赤い斑点が出ていました。 
 先生はそれを見て「神経に菌が入っているので、もっとひどくなるが二週間もすれば治りますよ・・・」と言われましたが、今でさえ夜も眠れないのに、これ以上ひどくなるのかと思うと、私は、必死の思いで神様にお祈りし、松香分苑長の文子先生にもお願いしました。
 そして、二、三日後娘の家の月次祭があり、足を引きづりながらもお参りしました。しかし翌日になると痛みはひどくなるどころかやわらいできました。
 私は驚き、思わず御神前に走り、何回も何回も神様に御礼を申しました。 一週間足らずで治ってしまいました。あらためて大本の信徒である事を、心からありがたく嬉しく思います。

第53話
  第53話 「妹のおかげでご神徳いっぱい」 名古屋市 KJ様    

入信間もない頃、私は三十七才の妹を亡くしました。名前も婚家の姓に変わっていましたので、私はこの妹を松本先生ご指導のもと幽家合祀にするつもりでいました。
 ところが十日目の早朝、その妹が夢枕に現れ自分を復祭にして欲しいと懇願しました。その時交わした言葉を今でもはっきり覚えています。私はその約束通りその朝いちばんに大本本部の霊祭課に連絡し、復祭の申し出と十日祭の申し込みが間に合ったという経緯がありました。
 私は、急に地球が大回転と急降下をするかのようなひどい目まいに、襲われた事があります。“ねえちゃん ねえちゃん”と泣く妹の声に導かれるように最後の力を振り絞って神棚の、みてしろを、かかえ込むよう、その場で指一本動かない意識が遠くなる・・・ということがありました。
 もし、あの時妹がみてしろの所まで導いてくれていなかったら・・・と、不思議な事にその時刻に私の腕時計は止まっていました。
 娘が受験勉強に疲れ、うとうとしていた時うっかり石油ストーブの上に目覚まし時計を乗せてボーッとしていた時です。急に娘は「エリちゃん エリちゃん」という私の妹叫び声で目を覚ましたそうです。もちろん、部屋の中に煙とススで何も見えない状態になっていました。またもや、大難を無難におかげをいただいていました。
 人生の大海を渡るには、大小数知らぬ悩み苦しみが次々と押し寄せてまいります。その大波が年々大きく荒くなって・・・もう絶えきれそうになかったのに~いつの間にか無事、私の後ろに過ぎていく、身体の弱い私には数多くの奇跡を又家族には一大直前に命拾いをと、いくつかの節々で亡き妹からの感謝のメッセージを感じるのです。
 神様の事を知らずして逝った彼女を通してこのようないくつかのご神徳をいただき妹ともども大神様の多大なご守護に心より感謝申し上げております。

第54話
  第54話 「ずるはだめ」 碧南市 SC様

私は、週に二回片道車で二時間かけて分苑のお琴のお稽古に通っていました。平成四年十月のある朝、なんとなく、今日はお稽古に行きたくなく用事があると言って、断り休んでしまいました。次の日台所でグラスを洗っていた時、グラスが割れて右手の親指を六針も縫う傷をしてしまい、私の仕事は絵を画く事なので右手が使えなくて、とても不自由な思いをしました。神様のお気づけ来る事を知らされました。
 それ以来常に反省する事を旨とし、感謝の心をおもって過ごすようになり身体も以前よりずーっと元気になりました。

 
第55話
第55話 「高熊山で三点の光!息子は助かる・・・」 横浜市 TT様

昭和五十三年七月二十日明日から夏休みという日の午後三時頃(当時小学四年)五分ほど前に息子と一緒に出て行ったばかりの友達が「塚ちゃんが交通事故で救急車で病院に運ばれた!」と飛び込んできました。私は、その言葉を信じませんでした。
 しかし、その病院に行くと、わが子が意識不明の危篤状態、冗談じゃない、そんな馬鹿な、親である私でさえ病室に入れてもらえない。身体は震えてガクガク・・・
 その時、弟が神様を信仰している事を思い出し、すぐ電話で助けを求めると(もう既に松本先生には感じていたそうです)私はこの時に初めて大本と出会いました。
 危篤状態の息子を病院に、一つ上の娘を残して必死の思いで、京都亀岡に行き、ご祈願をし、その後日、講座を受けました。 高熊山に登って、目を閉じ、合掌中、頭の上の方に、三点の光が、ちょうど三角形を描くように写り出され、「息子は助かる!」これは、きっと神の御光りではと思いました。その夜自宅に電話すると「少しだけど目が開いたよ」と、実に意識が失って二十七日ぶりの事で、それはそれは嬉しかったです。
 その光は開祖様、聖師様、二代様ではと思いました。
 綾部から講座を早めに切り上げ亀岡でもう一度ご祈願してもらおうと立ち寄ると、その日京太郎先生が大勢(五十~六十人位)の信者さんのお取次をしておりました。
 私は、とにかく息子が助かって欲しい一念でパッと前まで行き、「お願いです、今息子が交通事故で意識不明です助けてください!」すると、京太郎先生は「皆様も一緒に祈って上げてください。」と言って神殿に向かって大きな声でご祈願して下さいました。京太郎先生が、立派なお立場の方とはまだ存じませんでした。
 亀岡から戻って病院に行くと、お医者さんも看護婦の皆さんも、神様のお陰ね、と言ってくれました。
松本先生も神戸から横浜へわざわざご祈願に足を運んでくれました。その後は一日一日と回復に、(現二十四才)今日に来るまでには、親子共々精神的にもそれは苦労し挫折もしました。しかし大本の皆様、周りの方の暖かさに育まれ、少し障害は残りましたが、日常生活には殆ど影響なく、息子も明るさと、真面目さで仕事、ボランティアにと頑張っています。
 大本の皆さん方は礼儀正しく、偉ぶらず、親切な方々で月次祭に出席することで、不安も取れ、また今月も頑張ろう、神様が必ずいい方向に進めてくれると信じています。
 現在、息子は分苑で毎月のお祭りの後に手話を皆様にお教えしてお返しをしてくれています。

第56話
第56話 「ご神水の神徳」 三島市 HM様

これまでに、神様から神徳を頂いたことは数えきれませんが、特に鮮明に記憶していることは、ご神水のご神徳です。
 次男が幼い頃、風邪を引いたとき、吐き気と下痢で、何にも食べられず、薬を飲んでも吐いてしまいこのままでは大病になってしまうのではと、心配していたところ、ご神水を思い出し、次男に、飲ませたところ、気分が落ち着いて少しずつ食べれるようになりました。ご神水のありがたさを、しみじみ感じました。
 また、長男の高校入学の朝のことです。入学式に臨むため、私と長男は車で出かけましたところ、五、六分走った頃長男がクシャミをしました。初めは風邪を引いたのかな、そのうち治まるだろうと軽い気持ちでいました。ところが、クシャミが治まるどころか段々ひどくなってきました。今さら家に戻って薬を飲む時間もないし、通りに薬局も見当たらずどうしようかと思いました。
 ちょうどその時、妹の家の近くに来ていて、ご神水が脳裏に浮かびましたので、妹の家に寄ってご神水を頂きました。車に戻ったとき、不思議な事に、二十分近くもクシャミが続いていたのが、ぴたりと止まってしまいました。私も長男も、ご神水のご神徳に驚くと共に、感謝の念で一杯でした。お陰で無事入学式を済ませました。
 また、私が初めて膀胱炎になった時、ちょうど土曜日の夕方頃でしたので病院も行けず、薬局も閉まっていたので薬も飲めずにいましたが、夜中に段々ひどくなり、そのうち血尿が出る様になりました。
 その時、私はご神水が頭に浮かび早速何回かご神水を頂きました。次の日、日曜日もご神水を頂き何にも食べられず寝ていましたところ、夕方頃少しずつ良くなり、次の朝少し尿が出ました。念のため、病院へ行って検査をしてもらったところ、何も尿に異常ないとの事でした。土曜日の夕方頃から、ご神水以外何も口に入れていなかったのに、治っているのです。まさにご神水のご神徳です。

第57話
第57話 「三代様のお言葉をいただいて息子の熱が下がった」 三島市 FE様

十三年前文子様(現分苑長)親子と三才の長男を連れて、安産祈願を兼ねて聖地へ参拝した時の事です。     
 綾部に着きましたが急に長男が四十度近い熱を出し、このままでは肺炎になってしまうと言われ、お取次ぎをお願いしましたが、翌朝になっても熱が下がりません。日曜日でもあり、お医者に診て頂くにも困っていました。     
 すると、文子様が「今から亀岡へ行き、教主様にご面会させて頂こう」と言われタクシーで亀岡に向かいました。教主様にご面会できるかどうかも分かりませんし、これ以上容態が悪くなってもと、不安もあり、迷いました。     
 しかし、文子様の顔には少しの迷いも感じられませんでした。亀岡へ着いた時は御面会時間がすでに過ぎていました。しかし朝陽館に行きますと、私たちを待っていて下さったかのような教主様が帰館され、廊下でご面会させて頂きました。     
 子供は高熱でぐったりしていました。三代様がお通りになられた時、子供を抱いてご面会させて頂きました。     
 文子様が「子供が高熱を出しているんです」と話してくれました。「それはいけない大事にして下さいね」とお言葉を頂きました。そして御礼を申し、子供を抱き部屋に入られるまでお見送りしました。     
 その間、数分の短い時間の事の様に記憶しています。お見送りした後『あっ!』と驚きました。今まで触れるだけで熱かった子供の身体がいつの間にか、平常に戻っているのです。元気になりました。     
 ご神徳をいただき感激し涙しました。直接体験した初めての事でした。     
 あの時の三代様の崇高な御姿を一生忘れません。

第58話
第58話 「叶った合格祈願」 三島市 FS様

八月の二者面談で担任の先生に、第一志望校合格率十%だと言われましたが、何としてでもその高校へ行きたかったので、諦めませんでした。十月と十二月に毎年とても大事なテストが行われます。そのテストで良い結果を出さなければ、合格どころか受験させてもらえません。そこで九月に一人で京都に行き長生殿の献労奉仕をさせて頂きました。長生殿が千年持つように必死で床を磨きました。その必死な気持ちが神様に通じたのか、十月、十二月合格ラインギリギリの点を取ることが出来ました。     
 もちろん今までの自分からは考えられない点でした。それでも担任の先生に、まだ五分五分だと言われた冬休みにもう一度京都へ行って最後のお願いをしました。合格祈願もして頂きました。     
 勉強も自分なりに頑張ったし、毎朝お給仕をさせて頂いて神様に必死にお願いしました。これで落ちても悔いはないと思いましたが、入試が終わって時、正直言ってダメかと思いました。しかし、合格しました。信じられませんでした。神様が不可能を可能にして下さった、「有難い」と心に強く感じました。高校受験で初めて神様の偉大さ素晴らしさを知りました。第一志望校に合格できたのも神様のお陰なので、今後はいろいろな御用をさせて頂いて一生かかって恩返しをしたいと思いています。     
 そして、四代様には一月の面会で励まして頂き、本当に感謝しています。

第59話
第59話 「ご神文で短気が直った」 碧南市 SS様

私は、職場や家族にも暴力を振っておりました。
 私は、何とか暴力を直す方法は、ないものかと松香分苑長の文子先生に相談しましたところ『神文を毎日読めば直ります。』と、強く言われ、神文を下さいました。
 それからは、毎日御神前で、神文を続けて読みましたところ、気がつけばいつの頃からか、暴力を振わなくなっておりました。今では神文を有難く思っています

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大本の教えを知るためや健康維持、生活に役立つ資料等が保管されています
アニメビデオ 竜神に乗った少年
アニメビデオ 竜神に乗った少年 第1話「霊界探検」第2話「天国へのチケット」1988,1989年に松香分苑で製作した作品です
新型コロナウイルスとワクチンへの対応 新型コロナウィルスとワクチンの危険性、そして感染防止の方法や ワクチンの影響を軽減する方法について解説したビデオ資料です。 多くの方々に視聴して頂きたい内容です。 令和3年10月度月次祭のあと講演したものです。
健康講座1「五臓の色体表」
伴東洋治療院の伴 吉信院長による東洋医学に基づく健康講座です
(令和5年4月5日収録) 
健康講座2「五臓の色体表(詳解)」
伴東洋治療院の伴 吉信院長による東洋医学に基づく健康講座の第二回目です
(令和5年5月10日収録)
健康講座3
伴東洋治療院の伴 吉信院長による東洋医学に基づく健康講座の第三回目です
(令和5年8月23日収録)